【都市鉄道の歴史をたどる】王子電気軌道の足跡を追う 埼玉直通も目指した都電荒川線

いまでは「唯一の都電」として知られる都電荒川線ですが、この路線は最初から公営だったわけではなく、王子電気軌道という民営会社が運営していた路面電車を公営化したものです。東京北郊の王子電気軌道がたどった歴史をたどります。

「最後の都電」は都電らしくない?

 東京近郊の民営軌道の軌跡をたどるシリーズの第2回は、都電として現存する唯一の路線「荒川線」の前身、王子電気軌道について取り上げます。

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現存する唯一の都電として知られる荒川線(2017年3月18日、枝久保達也撮影)。

 最盛期に200km以上の路線網を誇った都電は、東京都交通局の財政再建と道路渋滞解消のため、1967(昭和42)年から順次撤去されていきます。1972(昭和47)年11月、前回紹介した旧城東電気軌道線区間を含む6線区が廃止され、最後に残ったのが32系統と27系統の一部、早稲田から三ノ輪橋までの区間です。

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都電荒川線は32系統と27系統の一部を統合する形で成立している(国土地理院の地図を乗りものニュース編集部加工)。

 当初は都電の全区間を廃止する計画でしたが、地元の熱心な存続運動によって1974(昭和49)年に存続が決定、改めて付けられた路線名が荒川線でした。

 それから40年以上が経ち、都心を走る都電の姿を知っているのは一定以上の年齢の人だけ。多くの人は「都電イコール荒川線」として思い浮かべることでしょう。しかし、昔は荒川線みたいな路線がたくさんあったんだなとイメージすると、実態とは随分かけ離れてしまいます。荒川線は極めて都電らしくない路線だったからです。

 王子駅付近の併用軌道区間は、荒川線を象徴する光景としてしばしば取り上げられます。JRのガード下から顔を出した小さな電車が、クルマに囲まれながら飛鳥山公園の横の坂を登っていく姿は今や貴重な光景です。

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飛鳥山公園の横にある都電荒川線の併用軌道(2009年5月、草町義和撮影)。

 でもよく思い出してください。荒川線は王子駅前から飛鳥山電停までのわずかな区間を除けば、ほとんどの区間は専用の軌道内を走っていることを。

 王子から町屋までの区間で道路の中を走っていた気がする、と思った方もいるかもしれません。確かに大きな道路の真ん中に線路が設置されたセンターリザベーション方式のように見えますが、これは線路に沿ってあとから作られた道路で、道路と軌道はきっちりと区切られています。

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荒川車庫前付近の軌道。センターリザベーション方式に見えるが、実際は軌道の横に道ができただけだ(2017年3月18日、枝久保達也撮影)。

 都電のなかで荒川線が唯一廃止を免れた理由とは、早稲田~三ノ輪間の大部分で道路と分離された専用軌道を走るため、道路交通に与える影響が非常に少ない路線だったためといえます。

 都電撤去最大の理由とされた道路渋滞を引き起こさず、道路上を走っていないのでバス転換できず、地元から存続を求める声が多く寄せられたこともあり、当初の撤去方針を覆して存続が許されたのです。

私鉄線として計画された東京北郊の路面電車

 なぜ荒川線は他の都電と違ったのでしょうか。それは、荒川線の前身が東京の郊外を走る私鉄線、つまり王子電気軌道だったからです。

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開業当時の大塚駅北口谷端川鉄橋。山手線の外側はまだのどかな郊外だった(出典:『王子電気軌道三十年史』)。

 王子電気軌道は、1906(明治39)年に東京市在住の資本家や実業家23人を発起人として、当時はまだ東京市外だった王子町を中心に、南は大塚、北は岩渕町(現在の赤羽岩淵)、東は三ノ輪に至る電気軌道の設立を出願したことに始まります。

 この頃、日露戦争後の重工業の発展を背景に工場の新設や拡張が進んでおり、東京郊外の開発の受け皿となるべく、近郊地域に交通機関が求められていました。

 翌1907(明治40)年に特許を得たものの、タイミング悪く戦争特需の反動不況に突入。資金集めに苦労し、会社設立は1910(明治43)年まで遅れました。

 1911(明治44)年8月、待望の第1期線が大塚駅前~飛鳥山上(現在の飛鳥山停留場付近)間に開業。初日の乗客は1500人だったそうです。1913(大正2)年4月には、第2期線として三ノ輪線・飛鳥山下(現在の梶原停留場)~三ノ輪間が開通し、飛鳥山の花見客で大いににぎわいました。

 電車開業から3か月後の1911(明治43)年11月、王子電気軌道はもうひとつの主力事業として、巣鴨、滝野川、板橋、王子、岩淵、尾久、三河島の周辺町村、さらに埼玉県川口町を対象に電力事業を開始しました。

 電力事業は戦前の電鉄会社の王道的な副業で、京成電気軌道(現在の京成電鉄)や京王電気軌道(現在の京王電鉄)でも、創業期の貴重な収益源になっています。

 王子電気軌道は巣鴨の自社発電所で電車用電力と供給用電力の合計750kWを発電していました。これは同時期の京成電鉄の合計476kW、京王電気軌道の合計855kWと比較しても遜色ない数字でした。

経営基盤確立で赤羽にも延伸

 王子電気軌道の経営が軌道に乗るのは第1次世界大戦後、郊外の市街地化と工場進出が加速してからのことです。電車事業収入と電力事業収入は1916(大正5)年から1919(大正8)年までの3年間で2倍、それから3年後の1922(大正11)年までにさらに3倍に増えました。

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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)

東京メトロ勤務を経て2017年に独立。江東区・江戸川区を走った幻の電車「城東電気軌道」の研究や、東京の都市交通史を中心としたブログ「Rail to Utopia」を中心に活動をしている。鉄道史学会所属。

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