吉祥寺で繰り広げられた京王と西武の争い 幻の鉄道計画の顛末(写真10枚)

「住んでみたい街ランキング」で、たびたび名前が挙がる吉祥寺(東京都武蔵野市)。終戦直後から1950年代にかけ、京王と西武が吉祥寺を軸に鉄道の新線建設を争った歴史があります。この決着はどのようにつけられたのでしょうか。

京王は井の頭線の延長計画

 1934(昭和9)年に吉祥寺(東京都武蔵野市)まで開通した井の頭線は小田急系の会社でしたが、第二次世界大戦中には大東急(東京急行電鉄)に編入され、戦争終結後の1948(昭和23)年に東京急行電鉄から独立、京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)の1路線となりました。

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JR中央線と京王井の頭線が乗り入れる吉祥寺駅(2019年2月、鳴海 侑撮影)。

 京王は設立当初、京王線と井の頭線の2路線、51.9kmからなり(休止線は除く)、ともに2両編成で運行。当時の京王線は急カーブや併用軌道区間が残っており、井の頭線は雨天時の冠水や乗り心地の改善が課題となっていました。そのため、両線とも改良工事を施し、京王線については輸送力も増強し、殺人的な混雑の緩和とスピードアップを実現することが急務でした。

 しかしながら、当時の京王の営業基盤は、いまからは想像もつかないほど貧弱でした。一方で激しいインフレの時代のため、賃上げ要求も激しかったといいます。そうしたなかで会社の経営を発展させ、京王線の輸送力強化をはじめとした大事業を行うには「事業計画を積極的に展開するのが最良の方途であった」(京王帝都電鉄30年史)といいます。

 そこで生まれた計画が井の頭線の延伸でした。井の頭線の延伸は京王が「大東急」から分離してすぐに計画されたもので、1948(昭和23)年12月、当初は久我山~三鷹~田無間の9.2kmの路線免許が申請されました。このころはまだまだ物資不足の時代で、敷設するレールの捻出は、三鷹駅から現在の武蔵野中央公園に向けて敷かれていた旧中島飛行機武蔵製作所への引き込み線と、府中~東八王子(現:京王八王子)間の単線化でまかなう予定でした。

 ここまでして延伸計画を進めた理由のひとつとして推定されるのは、旧中島飛行機武蔵製作所跡地に予定されていた「東京グリーンパーク」の計画です。三鷹駅の北方にあった旧中島飛行機武蔵製作所跡地は、中島飛行機の工場跡地払い下げで設立された武蔵野文化都市建設という会社により一大スポーツセンターが計画されていました。

 なかでも目玉は、「武蔵野グリーンパーク野球場」。延長線はこの野球場への旅客輸送を担いつつ井の頭線の活性化を図ろうとしたのです。さらに、スポーツセンターは当時招致が計画されていたオリンピックの会場としての見込みもありました。

 しかし、武蔵野文化都市建設の要請で旧中島飛行機工場への引き込み線は国鉄により活用され、中央線から東京グリーンパークへの乗り入れ列車が運行されることに(工事着工は1950年)。そこで京王は1949(昭和24)年12月、免許申請線の計画を変更することにしました。

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京王井の頭線延伸路線と西武鉄道の免許申請線の関係図(国立公文書館所蔵)。
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成蹊大学前を通る五日市街道。この横に京王井の頭線の延長線が走っていたのかもしれない(2019年2月、鳴海 侑撮影)。

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Writer:

1990年、神奈川県生まれ。私鉄沿線で育ち、高校生の時に地方私鉄とまちとの関係性を研究したことをきっかけに全国のまちを訪ね歩いている。現在はまちコトメディア「matinote」をはじめ、複数のwebメディアでまちや交通に関する記事を執筆している。

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