国立のシンボルロードに伸びていた? 幻の鉄路「京王国立線」のダイヤを考えてみた
中央線国立駅から南に向かう「大学通り」。この大学通りが出来た当初は路面電車を走らせる計画がありました。今回はその路面電車計画を追うとともに、もし開業していたらどのようなダイヤになるのかを予想してみます。
路線免許申請しながらも、返納に至った理由とは
新宿から中央線で約30分のところにある国立。駅前には立派なロータリーがあり、南東、南、南西と放射状に道が延びています。この中で南に向かう「大学通り」は元も道幅が広く、道の両側に木が植えられています。沿道には様々な店が建ち並び、国立のシンボルロードといえるでしょう。
そんな大学通りが出来た当初は路面電車を走らせる計画がありました。今回は路面電車計画を追うとともに、もし路線が開業していたらどんなダイヤになっていたのか予想してみたいと思います。
国立駅の南側は西武グループを発展させた堤康次郎が興した土地開発会社、箱根土地の手で開発されました。堤はこれまでに様々な土地の開発を行っており、国立では東京商科大学(現在の一橋大学)を移設する前提で学園都市の開発を始めます。東京商科大学は1920(大正9)年に大学になったばかりの大学で、神田一ツ橋にあったキャンパスは手狭でした。さらに1923(大正12)年の関東大震災で建物の大半を失うほどの大きな被害を受けます。このことから東京商科大学は郊外への移転を決め、箱根土地との間に契約を結びました。
箱根土地はそこで北多摩郡谷保村(現在の国立市)に土地を求め、1924(大正13)年から地主と交渉を始め、開発に着手します。当時は中央線こそ開業していたものの、蒸気機関車による運転かつ国立駅は開業していませんでした。そのため土地が安かった反面、利便性は低い場所でした。これでは到底大学が移転するには適地とはいえません。そこで、箱根土地と東京商科大学は嘆願書を出し、国分寺~立川間に駅が設置されることになりました。
これにより利便性が向上することになります。そして谷保に変わる新たな地名として「国分寺と立川の間」や「新しい国の姿をここに立てる」という意味を込めて新しい駅名と開発する学園都市を「国立」と名付けます。
国立の学園都市開発には東京商科大学も関わり、まちの中心を貫く通りの幅を24間(約44m)とすることを箱根土地に求めます。こうして現在の大学通り(開通当初は一橋通り)が生まれることとなりました。
その頃、国立の南東の府中には新宿を起点とする京王電気軌道と府中から八王子へ伸びる玉南電気鉄道が通っていました。京王電気軌道は当初経営難で府中から西については別会社をつくって建設していたのです。そして、京王電気軌道は今後の鉄道経営戦略を考える時期にありました。
そこで、京王電気軌道は国立への支線建設(以下「京王国立線」)を計画します。路線としては府中から現在の南武線谷保駅付近までは甲州街道の北側を並行するように進み、南武線谷保駅付近から北へ向きを変え、大学通りを併用軌道で走るというものでした。
1926(大正15)年には箱根土地との間で路面電車用の土地を無償で利用する旨の文書も交わされています。そして鉄道省に路線特許を申請し、1927(昭和2)年3月に免許が交付されます。箱根土地の国立学園都市のチラシにも1926年後半からは「京王電車予定線」として京王国立線の計画が書き込まれるようになりました。
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Writer: 鳴海 侑(まち探訪家)
1990年、神奈川県生まれ。私鉄沿線で育ち、高校生の時に地方私鉄とまちとの関係性を研究したことをきっかけに全国のまちを訪ね歩いている。現在はまちコトメディア「matinote」をはじめ、複数のwebメディアでまちや交通に関する記事を執筆している。