駅の位置が二転三転 幻の湘南モノレール湘南江の島駅を追う

湘南モノレールの湘南江の島駅は計画当初、現在の位置からさらに海岸線側に設置することを予定していました。なぜ今の位置になったのでしょうか。駅の位置が二転三転と変わっていった歴史を紐解いていきます。

計画当初はもっと海岸寄りだった

 大船駅(神奈川県鎌倉市)と湘南江の島駅(神奈川県藤沢市)の間(6.6km)を約14分で結ぶ湘南モノレール。懸垂(サフェージュ)式モノレールで、道路の上を吊り下げられる形で車両が走ります。また、いくつもの丘を越えるように走るため、高低差があり、車窓もめまぐるしく変わります。そのため慣れない人にはスリルを感じる所もあり、「ジェットコースター」と表されることもあります。

 そんな湘南モノレールの江ノ島側の終点、湘南江の島駅はトンネルを抜けた先に突如として駅があり、駅舎は5階建てのビルとなっています。ただ、この駅舎の位置は江ノ島の付け根からはるか離れているため、江ノ島にアクセスする際に利用しようとしても「少し遠い」という印象が拭えません。

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湘南モノレール湘南江の島駅。駅舎は5階建てのビルで、2018年にリニューアルされた(2019年12月、鳴海 侑撮影)。
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大船駅と湘南江の島駅を結ぶ湘南モノレール。車両は5000系電車に統一されている(2019年12月、鳴海 侑撮影)。

 実はこの駅舎の位置は、計画が二転三転した先に半ば「仕方なく」決まった場所でした。今回はそんな湘南江の島駅の計画位置変遷を追い、駅舎がなぜあの位置にあるのか探ってみたいと思います。

 江の島は江戸時代から将軍の祈祷所ともなったほど、弁財天信仰の場として知られ、江戸の人々には鎌倉とあわせて訪れる観光地として人気の場所でした。時代が明治に移り近代化していっても、東京から手軽にいける観光地として今日まで親しまれています。

 観光地として人気の江の島と対岸の片瀬の間には、大正末期から昭和初期にかけて、いくつものモノレール計画が作られました。免許申請にあたっては競願関係になりましたが、当時企業として成立していた江ノ島電気鉄道(現在の江ノ島電鉄)が片瀬と江の島島内を結ぶモノレールの免許を1928(昭和3)年7月に取得します。

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湘南モノレールが当初計画していた江ノ島水族館から江の島へのモノレールのルート図(国立公文書館蔵)。

 免許取得当時、江ノ島線が開業していた江ノ島電気鉄道では、モノレール事業は別会社の事業として進めることにし、「江ノ島懸垂電気鉄道」を設立します。参考にしたのはドイツにある現役最古のモノレール、ヴッパータール空中鉄道(1901(明治34)年開業)で、懸垂式の「ランゲン式」による建設計画を立てました。また、大阪の梅田と住吉公園の間を結ぶモノレールも計画しましたが、こちらは地下鉄との競合線になるため実現しませんでした。さらに江の島のモノレールに関しても沿線住民の反対と技術的問題から1935(昭和10)年に起業廃止をしてしまいます。

 さて、第二次世界大戦後になると日本ではモノレールの開発競争となりました。1957(昭和32)年には日本車輌製造が開発を主導する形で上野動物園内に懸垂式モノレール(上野式)の上野懸垂線が開業。続いて1961(昭和36)年には奈良ドリームランドの遊具施設として東芝が開発した跨座式モノレールが導入されます。

 その後も日立の主導する跨座式の「アルヴェーグ式」モノレールが1962(昭和37)年に犬山遊園から動物園の輸送用として開業。1966(昭和41)年には川崎飛行機が主導する跨座式の「ロッキード式」モノレールが、向ヶ丘遊園駅(神奈川県川崎市)と向ヶ丘遊園を結ぶ小田急モノレールと、姫路市の姫路モノレールとして開業します。

 各社さまざまなモノレールの形式を導入しようと開発や技術導入を行うなか、三菱重工業ではフランスで開発されていた「サフェージュ式」に目をつけ、日本エアウェイ開発を設立。名古屋の東山公園にデモ線を建設します。

 1964(昭和39)年に開通したデモ線でしたが、路線距離は0.2kmほどしかなく、サフェージュ式の特徴をアピールするには不十分なものでした。また、日立が主導するアルヴェーグ式モノレールとして東京モノレールが東山公園のデモ線と同じ年に開業すると、営業線の建設がモノレール導入促進には必要ということになり、日本エアウェイ開発は本格的な営業路線を建設できる場所を探します。

 まず建設計画を立てたのは片瀬地区の片瀬漁港西側にあった江ノ島水族館(現在の新江ノ島水族館)のあたりから江の島までの約800mでした。1962(昭和37)年に免許申請の出願を行いましたが、江の島島民や神奈川県からの反対で計画を放棄せざるをえなくなりました。

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Writer: 鳴海 侑(まち探訪家)

1990年、神奈川県生まれ。私鉄沿線で育ち、高校生の時に地方私鉄とまちとの関係性を研究したことをきっかけに全国のまちを訪ね歩いている。現在はまちコトメディア「matinote」をはじめ、複数のwebメディアでまちや交通に関する記事を執筆している。

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