「さんふらわあ」50年もなぜ続く? もとは客船のブランド名 「さんらいず」「さんせっと」だったかも?〈PR〉
いまや日本のフェリーの代表格ともいえる「さんふらわあ」。太陽マークが大きく描かれたカーフェリーが日本の東西を結んでいますが、もともとは客船のブランド名でした。なぜそれがフェリーに受け継がれ、いままで存続しているのでしょうか。
「さんふらわあ」デビューの衝撃
さんふらわあのルーツは客船でした——。
最初にさんふらわあを世に生み出したのは、現在の鹿児島〜奄美・沖縄航路などを開設した照国グループ。「豪華な客船を日本全国で運航」という構想を抱いていました。
時は大阪万国博覧会の開催を控え、高度経済成長時代の真っただ中。それを背景に国民のレジャー機運も上昇していました。そこで照国グループは国際級の豪華船の建造を川崎重工業に持ちかけ、1970(昭和45)年に照国郵船を母体とした「日本高速フェリー」を設立。夢の実現へと歩を進めていました。
そして1972(昭和47)年1月、川崎重工業の神戸工場で、当時としては異例の1万総トンを超える客船が竣工しました。真っ白な船体に、真っ赤な太陽。斬新なカラーリングを施された新船は「さんふらわあ」と名付けられたのです。
その船内は、従来の日本の客船やカーフェリーを凌駕していました。デラックスな内装、別料金でトロピカルショーをはじめとしたイベントを楽しめるレストランシアター、コース料理を味わえるグリル、大海原を眺められる展望ラウンジ、そしてプールもありました。
同年2月1日、「さんふらわあ」は日本高速フェリーの名古屋〜高知〜鹿児島航路でデビューを果たします。その優雅な船旅は九州旅行に向かう家族連れを中心に、たちまち高い人気を得ました。
幻の「さんらいず」「さんせっと」
その第2船の名は「さんらいず」となるはずでした。
ところが、デビュー直前に急きょ、「さんふらわあ2」と改名。予想をはるかに超える「さんふらわあ」人気が理由だったといいます。また、3隻目の候補は「さんせっと」でしたが、それでは太陽が沈んでしまいイメージがよくない——そこで3隻目以降も「さんふらわあ」としたという説もあります。
この3隻目は1973(昭和48)年に「さんふらわあ5」としてデビューし、翌年には「さんふらわあ8」もそれぞれ東京〜那智勝浦〜高知航路へ、さらに「さんふらわあ11」も大阪〜鹿児島航路に登場しました。次々と世に送り出された「さんふらわあ」は、のちに「さんふらわあ5姉妹」とも呼ばれました。
ナンバーが3隻目以降、3→4→5ではなく5→8→11と続いたのは、縁起を担いだという説があります。2の次が5なのは、末広がりの8に早く近づきたかったから。それで3ずつ番号を飛ばしたといわれます。
オイルショックが狂わせた「さんふらわあ5姉妹」の運命
しかし、1974(昭和49)年のオイルショックは「さんふらわあ5姉妹」の運命を狂わせました。
高度経済成長時代は終わり、国民のレジャー気分も一気にしぼみました。燃料費も高騰し、客船は冬の時代に突入したのです。翌年には日本高速フェリーの親会社・照国海運が倒産し、1979(昭和54)年には名古屋〜高知〜鹿児島航路も廃止。「さんふらわあ5姉妹」も、造船所での一時係船、別会社への移籍といった運命をたどります。
1984(昭和59)年、経営難に苦しんでいた関西汽船の大阪〜別府航路に「さんふらわあ」「さんふらわあ2」が投入されます。当時の関西汽船の筆頭株主は来島どっく。同社は、かつて「さんふらわあ」を保有していた日本高速フェリーも傘下としており、2隻の投入は別府航路再建の期待が込められていました。
しかし1987(昭和62)年には、その 来島どっくも関西汽船の経営からの撤退を表明します。そこへ船を出したのが商船三井グループでした。1990(平成2)年、当時の大阪商船三井船舶が、来島どっく傘下にあった関西汽船、ダイヤモンドフェリー、室戸汽船の3社を自社の傘下に収めたのです。
商船三井グループ入りで「東のさんふらわあ」誕生
また、東京〜那智勝浦〜高知と大阪〜志布志〜鹿児島の航路権は、商船三井系の日本沿海フェリー(東京〜大洗〜苫小牧を運航)に移りました。こうして日本高速フェリーは解散し、「さんふらわあ5姉妹」はすべて商船三井グループの所有となったのです。
日本沿海フェリーは社名を「ブルーハイウェイライン」に変更し、新たに船隊へ加わった3隻「さんふらわあ5/8/11」の華やかなイメージにあやかり、赤い太陽マークを従来の自社船にもペイント。これにより1991(平成3)年には全船名が「さんふらわあ+地名のひらがな表記」に統一されました。
翌年には関西汽船の別府航路に「さんふらわあ こがね/にしき」が就航。これにより、1日3便の別府航路はすべてカーフェリー化されます。
客船の時代からカーフェリー時代へ。「さんふらわあ さつま」(初代)と名を変えていた「さんふらわあ11」が1993(平成5)年に引退したのを手始めに、旧来の客船は姿を消していきます。いまも別府航路へ就航している「さんふらわあ あいぼり/こばると」が1997・98年に投入されると、70年代に一世を風靡した「さんふらわあ5姉妹」はすべて日本の海を去りました。
東京航路も消滅 航路・経営再編の嵐へ
「さんふらわあ5/8/11」の航路を継承したブルーハイウェイラインが存在したのはわずか11年間。その後半は、北海道から九州まで広がった航路の再編などが進められました。
常磐道の整備を受け苫小牧航路の旅客輸送を東京発着から大洗発着とし、2001(平成13)年には東京〜那智勝浦〜高知航路を廃止。東京から旅客を乗せる「さんふらわあ」が消えると同時にブルーハイウェイラインは解散し、北海道航路は新たに誕生した「商船三井フェリー」へ引き継がれました。同社はその後、東日本フェリーより大型フェリーを譲り受け、船隊を整備することになります。
関西の航路は、この前年に大阪〜志布志航路がブルーハイウェイラインから分社化された「ブルーハイウェイライン西日本」に引き継がれていたものの、同社は2007(平成19)年7月にダイヤモンドフェリー(神戸〜大分)へ経営統合されます。さらに別府航路の関西汽船とも統合が進められ、2009(平成21)年に「フェリーさんふらわあ」が設立されました。
かつて瀬戸内海でしのぎを削ったライバル同士の関西汽船(大阪〜別府)とダイヤモンドフェリー(神戸〜大分、大阪〜志布志)が、名実ともにフェリーさんふらわあへ合併したのは2011(平成23)年のこと。これにより日本の東西で「さんふらわあ」を運航する現在の2社体制が確立されました。
Writer: カナマルトモヨシ(航海作家)
1966年生まれ。日本のフェリーだけでなく外国航路や、中国・韓国の国内フェリーにも乗船経験が豊富な航海作家。商船三井のホームページ「カジュアルクルーズさんふらわあ」や雑誌「クルーズ」(海事プレス社)などに連載を持つ。