ムッソリーニの鶴の一声で誕生 イタリアン戦車P40 ソ連製T-34に憧れ開発途中で大変身
第2次大戦中、ソ連領内に攻め入ったドイツ軍が強力なT-34戦車に遭遇し、大ショックを受けたことは比較的知られています。通称「T-34ショック」と呼ばれた衝撃は、イタリアにも影響を与えたとのこと。結果、生まれた同国最後の戦車P40型とは。
統帥の号令で始まった重戦車開発
1939(昭和14)年に始まった第2次世界大戦に、イタリアは翌1940(昭和15)年6月に参戦します。当時、イタリア陸軍は数多くの戦車を集中運用する、いわゆる機甲師団(別名、戦車師団)を3個保有しており、装甲車を比較的多く装備する「快速師団」や「騎兵連隊」と呼ばれる部隊も複数有していましたが、そのほとんどは2名乗りで重量わずか3t強のL3快速戦車、いわゆる「豆戦車」が戦車総数の75%を占めており、敵であるイギリスと比べると性能的には非常に頼りないものでした。
一応、より強力な戦車としてM11/39中戦車の配備も始まっていたものの、これすらもL3快速戦車よりは大きく重いというだけで、イギリス戦車と比べると性能的には劣っていました。本格的戦車として続いて開発されたM13/40中戦車も、生産が始まらない有様であったことから、ドイツやソ連の大型戦車に比肩するような重戦車は影も形もありませんでした。
こうした状況ゆえに、当時イタリアの指導者であったムッソリーニ統帥は、1940(昭和15)年の開戦直前、他国の戦車に引けを取らない重戦車を開発するよう軍に命令します。この掛け声により、イタリア陸軍の戦車研究所もようやく重戦車の試作を開始。当初は47mm砲を装備して20tから25t程度の大きさで、6名から8名の搭乗員が乗り込み、速度32km/h、3mの塹壕を超えられるなどの性能を持つ多砲塔戦車の設計案を作ったものの、これは時代遅れなプランとして却下されました。
そこで陸軍戦車研究所は、M13/40中戦車をそのままスケールアップしたデザイン案を再提案して、翌年には原寸大の木製モックアップを製作します。この試作車輌はP(Pesante:重)40重戦車、もしくは重量が26t想定となったのでP26重戦車と呼ばれ、試作車両の製造が始まりました。
設計するにあたり元になったM13/40中戦車が重量約13.7tなので、それと比べると一気に2倍の重さになったといえますが、それでも他国と比べてみると、ドイツのIV号戦車(約25t)、ソ連のT-34-76(約26t)、アメリカのM4「シャーマン」(約30t)とようやく肩を並べるレベルであり、諸外国では中戦車クラスといえる大きさでした。
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