【都市鉄道の歴史をたどる】夢と消えた「川崎縦貫高速鉄道」 迷走した路線計画の変遷をたどる
川崎市が構想した「川崎縦貫高速鉄道」。大師河原から川崎駅を通り新百合ヶ丘駅までを結ぶ地下鉄として計画が始まりましたが、他社線への乗り入れ構想もあり、路線計画は二転三転。ついには計画自体が廃止となってしまいました。構想していた路線計画の変遷をたどっていきます。
この記事の目次
・川崎縦貫高速鉄道の構想とは?
・座談会では需要不足の指摘が
・新たな答申では武蔵野南線への乗り入れに
・武蔵野南線への乗り入れ計画から京急大師線への乗り入れに変更
・軌間が異なる小田急多摩線への乗り入れに方針転換
・元住吉駅から武蔵小杉駅への接続案に
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川崎縦貫高速鉄道の構想とは?
全国有数の工業地帯であり、ベッドタウンとしても知られる川崎市。人口は約150万人で、これは全国20の政令指定都市のうち横浜市、大阪市、名古屋市、札幌市、福岡市に次ぐ6位に位置します。ところが川崎より人口が多い5都市はもちろん、川崎市よりも人口の少ない神戸市、京都市、仙台市にも地下鉄があるのに対して、川崎市には地下鉄がないのです。
でも「川崎市営地下鉄」という言葉を聞いたことがあるような、と思った人もいるかもしれません。正式には「川崎縦貫高速鉄道」と呼ばれた地下鉄路線は、2001(平成13)年に国土交通省から鉄道事業許可を受けて、都市計画の改定や環境アセスメントにも着手するなど、着工まで秒読みの段階にありました。
しかし、これから述べるように様々な事情により計画の延期が決まり、やがて休止となり、2018年に正式に廃止されました。実現の一歩手前まで行きながら幻と消えた地下鉄計画とはどのようなものだったのでしょうか。
川崎市が最初に地下鉄構想に言及したのは、1963(昭和38)年3月に公表した「川崎市総合計画書」でした。計画書は「縦断交通の強化拡充が考えられなければならない」として、市域北西部の住宅開発が飛躍的に発展する中で、ベッドタウンから臨海工業地帯を結ぶ縦断交通が必要との認識を示しました。
その上で「市の北側を縦断している国鉄南武線に並行して、(中略)高速かつ大量輸送の可能な地下鉄、あるいは大量輸送という面では劣るがモノレール等の敷設も将来においては考慮されるべき」としています。
川崎市の構想を受け、運輸大臣の諮問機関である「都市交通審議会」が1966(昭和41)年に提出した答申「横浜及びその周辺における旅客輸送力の整備増強に関する基本計画について(答申第9号)」には、1985(昭和60)年までに整備すべき路線として、大師河原から川崎駅、末吉橋、元住吉、長沢を経て百合ヶ丘に至る地下鉄「5号線」が盛り込まれました。
答申は5号線について「本路線は、川崎市を縦断して丘陵部、内陸部、臨海工業地帯を直結し、南北線の混雑緩和を図り、あわせて市街地部分における路面交通の混雑をはかろうとするものである」と説明しています。川崎市はこの頃、トロリーバスや市電を廃止するなど、都市交通の再編を急いでいた時期だったこともあり、地下鉄には大きな期待が寄せられていました。
1968(昭和43)年3月に公表された「川崎市第二次総合計画書」ではさらに踏み込んで、「弱体な縦貫交通路を整備することによって、本市の核心をなす臨海部と後背地として開発される内陸、丘陵部との間に強力な動線を配置し、横断交通によって分断された地域の一体化と市民生活、市民意識の統一化を図」らなければならないとして、南武線とは別の縦貫鉄道の必要性を強調しています。
ここで注目したいのは「横断交通によって分断された地域の一体化」という文言です。多摩川に沿って南北に細長い川崎市は、小田急線や東急田園都市線、東横線など市域を横断する鉄道が多数ある一方で、縦断する鉄道は南武線しかありません。
そのため横断鉄道の沿線住民は、市内中心部である川崎駅周辺に向かうより、川崎以上に栄える東京や横浜に行く方が楽という逆転現象が発生し、東京や横浜のベッドタウン化が加速することになります。市民の「流出」を抑え、市域を同一生活圏とすることで、川崎市民というアイデンティティを確立したいという想いが垣間見えます。
この想いは計画の末期に至るまで連綿と受け継がれました。しかし、言い換えれば実際の交通需要に対応するための路線ではなく、川崎市のあるべき姿という理想の実現のために計画された路線ということを意味しており、この現実と理想のギャップが最後まで計画を迷走させることになります。
もうひとつ縦貫高速鉄道に影響を及ぼした構想があります。1973(昭和48)年3月に公表された「川崎市における交通輸送機関の最適ネットワーク形成のための調査報告書」の中で調査対象となった、新横浜から川崎を経由して羽田空港に至る「拠点連絡鉄道」です。
調査会は縦貫高速鉄道の建設費を節約するため、一部区間を拠点連絡鉄道と共用することを提案。これを受けて川崎市が1974(昭和49)年に策定した「新総合計画(第3次総合計画書)」では「川崎市縦貫高速鉄道(臨海部~川崎駅~元住吉~百合ヶ丘)」と、拠点連絡鉄道改め「都心部機能強化線(羽田空港~川崎駅~新横浜)」の2路線の整備計画が挙げられています。これからしばらくの間は、この構想がベースとなり検討が進められます。
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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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