WW2イタリア「特攻ボート」の戦果とは? 観光艇改造“生還前提”の体当たり 日独に影響

クレタでの栄光とマルタでの敗北

 第2次世界大戦の勃発から1年半後、M.T.M.突撃ボート部隊に出撃の好機が訪れます。1941(昭和16)年3月25日、地中海においてイギリス海軍の拠点となっていたクレタ島に向けて第10M.A.S.部隊「デチマ・マス」が出撃。2隻の駆逐艦に搭載された6隻のM.T.M.型突撃ボートは、深夜にクレタ島沖で降ろされ翌日未明にスダ湾に侵入します。

 6艇は早朝までにイギリス軍の目を盗んで、港の入り口に張られた4重の潜水艦や魚雷などの侵入を防ぐネットを乗り越え、奥で停泊中の英重巡洋艦「ヨーク」(排水量8250トン)を発見することに成功しました。

 港に侵入した6艇のうち2艇が、並走しながら猛然と突入。巡洋艦「ヨーク」の80m近くまで肉迫すると2艇の搭乗員は相次いで脱出、「ヨーク」を大破させたのです。また別の1艇は港に停泊中のタンカー「ペリクレス」(排水量8825トン)を沈めました。

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M.T.M.型突撃ボートD型「8B」号。透視カラーになっている艦首の赤い円筒は330kg爆薬を、後部の緑は95馬力エンジン、水色は搭乗員を示している(吉川和篤作画)。

 なお、イギリス側は完全に虚を突かれた形となったため、この攻撃を低空で侵入した航空機による魚雷攻撃と勘違いしたほどだったといいます。一方、M.T.M.突撃ボートの搭乗員は全員生還して捕虜になっており、この奇襲はイタリア側の完全な成功となります。

 ただし、この攻撃から4か月後の1941(昭和16)年7月26日にM.T.M.突撃ボート9隻で行われたマルタ島ヴァレッタ軍港攻撃では、夜明け前に防御ネットで侵入を阻止されたところでイギリス軍に発見され、十字砲火を受けて全員が戦死するという大損害を被っています。

 また戦争が進展するにつれ、イギリス軍のレーダーを含む警戒網が強化されるようになると、次第に突撃ボートは出撃しにくくなっていきました。しかし終戦間際の1945(昭和20)年4月16日、深夜フランス国境の近くに停泊中であった仏駆逐艦「トロンベ」(排水量1320トン)の攻撃にM.T.M.突撃ボートは成功し目標を大破させており、最期の戦果を上げています。

 ちなみに、M.T.M.突撃ボートはドイツや日本にも影響を与えています。似たような突撃艇としてドイツ海軍は「リンゼ」艇を開発。また旧日本陸軍は「マルレ」艇を、旧日本海軍は「震洋」艇を開発しますが、こちらはイタリアとは異なり、最終的には搭乗員の犠牲を前提にした体当たりの特攻兵器として用いられました。

【了】

【図解】爆薬積んだ特攻艇の攻撃の仕方

Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)

1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「あなたの知らないイタリア軍」「日本の英国戦車写真集」など。

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