旧陸軍の“第一級秘密兵器” 軍艦のような商船のような「神州丸」 実は強襲揚陸艦の先駆け

「神州丸」はどのように運用する予定だった?

 列国に比べて先進的な存在となった「神州丸」。はたしてこのフネはどのように運用されたのでしょうか。

「神州丸」は基準排水量7100トン、満載排水量で8108トン、速力は最大20.4ノット(実際は19ノット程度)、航続距離は7000海里(1万6200km)でした。また収容可能な兵員数は1200名ですが、最大で2000名が乗船可能でした。これに大発の最大搭載数29隻を考えると、おそらくは戦車中隊や砲兵中隊で増強された歩兵大隊を運べる計算になります。したがって上陸第一波として、後続する上陸部隊の掩護部隊となり、海岸堡を確立し拡大する先鋒部隊を運ぶため、真っ先に上陸予定水域に進入する役割を担っていたのでしょう。当初考えられていた飛行機の運用もこれを裏付けるものといえます。

 上陸用のマニュアルでは1922(大正10)年頃までは、上陸部隊の先鋒には海軍の陸戦隊が使用されることになっていましたが、その後に出されたマニュアル『上陸作戦』からは陸軍が独自に行うことになりました。

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旧日本陸軍の「神州丸」(画像:アメリカ海軍)。

 これより後の基本的な作戦マニュアルは『上陸作戦綱要草案』(1927年)、『上陸作戦綱要』(1932年)、『作戦要務令第四部』(1940年)と変遷していきますが、「陸軍が(海軍の協力を得て)独自に行い、奇襲上陸を原則とするが、強襲に転じても良いように準備する」という基本的な方針は変化していません。

 まさに「神州丸」は、奇襲・強襲のために造られたフネだったといえるでしょう。

 就役した「神州丸」は舟艇母船としてだけではなく、優れた通信設備を活かして、上陸指揮船としても使用されました。初陣は日中戦争の勃発にともなう太沽上陸です。その後、多くの上陸作戦に参加。太平洋戦争の初頭にジャワ島(現在のインドネシア)のバンタム湾で味方の魚雷の誤射で着底してしまいますが、揚収に成功します。その後は、輸送任務に重用されたのち、1945(昭和20)年1月3日にアメリカ軍機による空襲で大破炎上し、潜水艦の雷撃で沈没しました。

「神州丸」はおもに日中戦争において使用され、その後は輸送任務に活躍しました。他の軍艦のように派手な生涯ではありませんでしたが、世界に先駆けた設計・運用思想は改めて評価するにふさわしいものといえるでしょう。

【了】

【船内の様子も】旧陸軍の先進兵器「神州丸」の活動する様子

Writer: 樋口隆晴(編集者、ミリタリー・歴史ライター)

1966年東京生まれ、戦車専門誌『月刊PANZER』編集部員を経てフリーに。主な著書に『戦闘戦史』(作品社)、『武器と甲冑』(渡辺信吾と共著。ワンパブリッシング)など。他多数のムック等の企画プランニングも。

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