「旅客機=丸い窓」誕生のきっかけにも? 世界初ジェット旅客機「コメット」が残した功績とは

革新的すぎた「コメット」を襲った悲劇

 DH.106「コメット」を世に出すことは、デ・ハビランド社の創業者、ジェフリー・デ・ハビランド・シニア社長の悲願でした。それを裏付けるエピソードの一例として、初飛行日である7月27日は、社長の誕生日。これはあえてこの日が選ばれたのだそうです。初飛行は31分間と記録されています。

 なお、初飛行が実施されたハート・フィールド飛行場は、デ・ハビランド社の工場敷地の一角にあり、製造した飛行機をすぐ飛ばせるように整備した飛行場で、第二次世界大戦後には、ジェット機が飛行できるように舗装されました。

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那覇空港で。旅客機の「丸い窓」は2022年現在でも健在だ(乗りものニュース編集部撮影)。

 DH.106「コメット」が初飛行に成功したことで、イギリスは、当初はまだダグラスDC-7、ボーイング377、ロッキード「エレクトラ」などのプロペラ旅客機が主力だったアメリカの輸送機に威信を示すことができました。しかし、1952年の就航後、同機は空中分解事故を連発させ、高い事故率を記録してしまうことになります。

 これは先述した「四角い窓」が原因でした。同型機は空気が薄い高高度でも、人為的に機内の空気の濃さ、気圧を上げる「与圧客室」を搭載。ただ居住性とトレード・オフで、機体の構造には圧力差による負担がかかることになります。窓枠を鋭角にしてしまったことで、この角の部分に力が集中して負荷が生じてしまい、結果として、設計値の10分の1の飛行回数で機体破壊に至るという“想定外”の事態が発生してしまったのです。

 このことから「コメット」は、当時の最新技術を盛り込み、未知のジャンルに挑戦した最新鋭機であったにもかかわらず、現代でも“駄作機”と辛辣な評価を下されることもあります。ただ、同機が辿った経歴によって、イギリス航空界はまさに“威信をかけた原因究明”にあたることになり、その後のジェット輸送機のデザインにおける大きな指針を示したことはいうまでもありません。事実「コメット」以降のジェット旅客機の窓はすべて丸みを帯びており、その設計は現代の最新鋭機でも健在です。

 なお「コメット」には、課題の窓枠部分を設計し直した派生型も誕生しましたが、最終的にはわずか112機の製造にとどまっています。すでにアメリカが開発したジェット旅客機が次々登場しており、そちらにシェアを奪われてしまったためとされています。

【了】

【写真】確かに窓の形が違う! 初期タイプの「コメット」を見る

Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)

成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。

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1件のコメント

  1. BAE ニムロッド38機の生産も派生型に加えてもよいのではと考えます。