誕生の経緯は条約逃れ 旧海軍巡洋艦「最上」竣工-1935.7.28 事故契機に偵察機マシマシへ

2度目の衝突、最後は味方が処分

 満身創痍で佐世保に帰り着いた「最上」は修理を受けるとともに、空母4隻を喪失した旧海軍の航空戦力を補完するため、後部砲塔を撤去し水上機用甲板を増設。飛行機を最大11機搭載できるよう改装されました。こうして翌1943(昭和18)年4月、「航空巡洋艦」へと生まれ変わったのです。

 その2か月後、「最上」は戦艦「陸奥」の爆沈事故に居合わせます。「陸奥」爆発の原因は現在に至るまで不明ですが、事故直後は敵潜水艦による雷撃も疑われ、傍らにいた「最上」は爆雷を投下し対潜警戒を行いました。

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レイテ沖海戦の最中、スールー諸島でアメリカ軍の空襲を受ける扶桑型戦艦(手前)と「最上」(奥)(画像:アメリカ海軍)。

 戦局が悪化する中、「最上」はパプアニューギニアのラバウルなどへ物資輸送任務に従事します。1944(昭和19)年6月には、サイパン島およびグアム島を巡って勃発したマリアナ沖海戦に、同年10月にはフィリピンのレイテ島を巡って勃発したレイテ沖海戦に、それぞれ参加します。ただレイテ沖海戦が、「最上」の最期となります。

 10月22日、「最上」はフィリピン東部のスリガオ海峡に進出すると、水上偵察機を発進させアメリカ艦隊の索敵を成功させます。しかし圧倒的な戦力差に日本は苦戦。行動をともにした戦艦や駆逐艦が次々と撃沈され、「最上」も砲撃で火災に見舞われます。

 そのような中、突如「最上」は味方の重巡洋艦「那智」と衝突。「那智」は炎上している「最上」を停止と判断、その前方を横切ってしまったためでした。火災も相まって大破した「最上」は、味方の駆逐艦により雷撃処分されました。

 激戦の最中2度も僚艦と衝突した「最上」ですが、沈没から75年経った2019年5月、故ポール・アレン氏の調査チームによって発見されます。発見場所はスリガオ海峡の水面下で、深さ1450mの地点に残骸が残されていたそうです。

【了】

【写真】航空巡洋艦に変貌 飛行甲板に並ぶ水上機

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