JALも発注「ボーイングの超音速旅客機」なぜ挫折? 「コンコルド」超えの高スペックとは
国家一丸の「2707」計画 なぜうまくいかなったのか
ボーイング2707は1969年10月までに26の航空会社より122機の予約が入ります。この顧客にはパン・アメリカン航空、デルタ航空、ノース・ウェスト航空、アリタリア・イタリア航空、そしてJALもいました。
この当時、将来的にSST(超音速旅客機)が世界中の空を飛び回ると見立てられていました。現在の成田空港こと「新東京国際空港」の設計においても、2707受け入れの可能性を視野に入れていたと、筆者は聞いたことがあります。
しかし、その後、超音速機における民間航空の環境が一変。1971年にアメリカはニクソン大統領がSST計画への国家財産の投入を凍結してしまいます。この理由としては、ベトナム戦争が泥沼化したことをはじめ、アポロ計画に資金援助を集中させたいというアメリカ政府の方向転換、そして地上の上空を飛ぶ際のソニック・ブーム(衝撃派)や騒音による被害といった環境への影響を危惧し、国主導のSST開発への反対運動が相次いだことなどが挙げられます。
こうして、ボーイング2707計画は、試作機の飛行に至ることなく、とん挫してしまったのです。ボーイング社が2707のために雇用されていた要員も大量に解雇することとなり、「シアトルを食い尽くした2707」と辛辣な評価も下されたのだとか。
一方で、2707計画とん挫後のボーイング社は超音速旅客機のプロジェクトを社内的に進めており、1990 年から 1999 年にかけNASA の高速研究プログラムの一部として行われた「高速民間輸送プロジェクト」では、2707の経験が生かされたとしています。
ちなみに、2707を発注した航空会社のひとつであったJAL。同社のラウンジ施設に2707の模型が飾られている様子を見たことがあります。機体番号は「JA2707」で、赤と紺の胴体ラインが特徴的な「初代鶴丸」塗装があしらわれていました。このほか、「初代鶴丸」より一つ前のデザインがあしらわれ、のちにボーイング747に付与されることとなる「JA8101」の機体番号をまとった2707の模型も存在しました。
【了】
Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)
成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。
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