特徴は「何とも不安なフォルム」…? 東ドイツ初のジェット旅客機が“迷機”となったワケ でもなぜこの形に?

「VEB152」はどのように“迷機”になってしまったのか

 ただ、このVEB152は初飛行こそ成功したものの、その結末は先述の「DC-4」とは対照的なものとなってしまいました。

 試作型である1号機は、初飛行後の翌年に実施された2回目の飛行時、高速での急降下に失敗し、墜落。事故原因は完全には明らかになってはいませんが、操作ミスの説が有力です。

 VEB152は1960 年、エンジンを換装し、バランスの悪そうな主脚の設計なども見直した2機目の試作機も飛行に成功、その後、そこからさらに改修を加えた3号機も完成しました。ただ、その開発の進み方は当初の計画よりだいぶ遅れていました。

 そのようななか、1950年代後半からソ連は、ソ連製のジェット旅客機の開発を優先し、VEB152についてはソ連の国内航空会社では導入しないと発表。そうなると実用化したとしても需要が見込めなくなってしまったこともあり、VEB152は東ドイツ政府からの命令により、開発計画が放棄されてしまったのです。

 ドイツ統合後の1995年には、製造途中であった20機ほどのパーツを利用して、VEB 152を復元する計画が持ち上がったようですが、少なくとも筆者が知る限りでは、残念ながらこの機が完成したという情報はないようです。

 ちなみにここまでこの旅客機を「VEB 152」として紹介してきましたが、実はこの機は呼称が固まりきっていないという一面があります。たとえば「バーデ152」「B.B.152」そして単に「152」などなど。これまで呼称として使ってきた「VEB」は製造メーカーの名前です。

「バーデ152」は人名からつけられています。由来となったブルノルフ・バーデ氏は東ドイツ設計チームの中心人物であり、この機の“生みの親”。旧ソ連では、機体の名称に開発者などの人名を盛り込むことが一般的であったことかから、この呼称が一般的となったのでしょう。「B.B.152」も、「“B”runolf “B”aade」の頭文字をとったものと思われます。

 このように名称が固まりきっていないという面も、この機が実用化からは遠いところにあった、という経緯を示す、象徴的なエピソードの一つといえるでしょう。

 当時の航空誌の記事を読んでいると、東ドイツ最初の旅客機の開発に、技術者が苦労して挑んでいる姿を知ることができます。筆者にとってこのエピソードは、どこか、国産旅客機「YS-11」開発の経緯と重なって見えるところがありました。

【了】

【写真】主脚も翼端もすごい形だ…VEB152のびっくり全貌

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Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)

成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。

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コメント

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1件のコメント

  1. Baade 152でしょう。
    設計者がBrunolf Baade、製造会社はVEB Flugzeugwerke Dresden、VEBは、Volkseigener Betriebの略称ですかね。