敵を監視するために“漁船”を総動員した日本海軍 しかしその結果は? 知られざる「海の特攻隊」

「知られざる特攻隊」

 このように、戦争初期に少なからぬ効果が認められ、規模を拡大していった特設監視艇部隊ですが、戦局が不利になるにつれ、その状況は変化していきます。

 その後、1944(昭和19)年7月にマリアナ諸島が陥落し、同諸島からB-29が日本本土空襲を行うようになると、それを警戒するために東哨戒線と中哨戒線が設けられます。しかし、飛来するB-29を発見し、無線でそれを知らせても、日本にはすでに有効な防空網はなかったのです。

 さらに、無武装に近い特設監視艇は、哨戒飛行を行うアメリカ軍機に次々と撃沈され、浮上したアメリカ軍の潜水艦にさえ撃沈される事態すら起こるようになります。

「敵発見」がそのまま「撃沈」につながってしまう特設監視艇は、まさに知られざる特攻隊だったとも言えるでしょう。

 こうして、特設監視艇の喪失数は300隻、損耗率73.7%に上る結果となりました。特設監視艇以外のものも含めて、海軍が様々な用途で徴傭した漁船という視点で統計を取ると、その損耗は650隻といわれ、この数字は徴傭漁船群全体の77%になります。

 もっとも実際のところは、徴傭された漁船の喪失数は戦後様々な研究があったものの、はっきりとした数は出ていません。今でも人知れず、広大な太平洋の海底で眠る徴傭漁民が多く存在するはずです。そして、こうした漁船・漁民の被害は、別の意味で深刻な影響を日本にもたす結果となります。

Large 230602 gyosen 02
アメリカ軍が撮影した行動中の特設監視艇。漁船にしか見えないシルエットだ(画像:アメリカ海軍)。

築地から魚が消えた…

 戦前の日本人はタンパク質の多くを米と魚からとっていました。しかし相次ぐ漁船の徴傭により、すでに開戦翌年の1942(昭和17)年の7月には、遠洋漁業も近海漁業も実質的に壊滅し、残されたのは手漕ぎの漁船か、30トンに満たない漁船による沿海漁業のみとなっていました。

 同年、東京中央卸売市場(築地市場)から魚介類が消えました。また1943(昭和18)年頃の全国平均魚介類摂取量(干物なども含む)は、1年あたり15kg程度に低下しました(ちなみに、2000年の統計では40.2kg)。

 漁船の大量徴傭は、日本の漁業の急速な壊滅を招き、戦時の国民生活をさらに窮乏させる結果となったのです。

【了】

【え…これで行けと?】太平洋のど真ん中に送られた漁船の“装備”(画像で見る)

Writer: 樋口隆晴(編集者、ミリタリー・歴史ライター)

1966年東京生まれ、戦車専門誌『月刊PANZER』編集部員を経てフリーに。主な著書に『戦闘戦史』(作品社)、『武器と甲冑』(渡辺信吾と共著。ワンパブリッシング)など。他多数のムック等の企画プランニングも。

最新記事

コメント

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシー利用規約が適用されます。