ジャマだし重い!「下駄を履いたゼロ戦」なぜ必要だったのか 日本軍が抱えた「仕方ない理由」とは
アメリカに不要で日本では必要だった理由は?
二式水戦は零戦一一型や二一型をベースとしており、アメリカとの戦争で太平洋各地に展開されました。零戦に比べて重量が200kgほど増えましたが、武装やエンジン、周辺装備は零戦のままであり、戦闘能力は十分。アメリカ軍の戦闘機と格闘戦をして、撃墜した記録もあるほどです。
二式水戦は、1942(昭和17)年7月6日から翌年9月までの約1年間生産され、総数は327機といわれています。戦闘機と比べると数はかなり少ないですが、そもそもほかの国では同時期に量産すら行われていなかったため、かなり生産数の多かった水上戦闘機となります。
ですが、進化著しい当時の陸上戦闘機との性能差は、大戦が後半なればなるほど開いていきます。にも関わらず、終戦まで、日本海軍だけは水上戦闘機を重視し続けました。その背景には、島しょ部に陸上機を離着陸させる滑走路を整備する重機の数がないという、どうにもならない台所事情もあります。
対してアメリカは、島しょ部の比較的大きなスペースに重機を投入して飛行場を建設し、それでもカバーできない地域の場合は大量生産した航空母艦に飛行場のかわりを任せており、陸上機に性能が劣る水上機戦力を充実させる必要性がありませんでした。ちなみにアメリカ軍は、戦後のジェット機移行の初期に、速度が上がりすぎて空母から発着艦できなくなるのではと、ジェット水上戦闘機であるF2Y「シーダート」を開発したことがあります。
戦時中に、日本海軍が水上戦闘機を重視したのは、自国の工業力の脆弱さも背景にありましたが、後に副産物も生み出すことにもなります。1942年5月に完成した前出の川西航空機「強風」は、戦局の悪化により水上戦闘機としては活躍の場をほとんど失っていましたが、後に陸上戦闘機として設計変更されると名を「紫電」と改め、同機をさらに発展させた「紫電改」が、日本海軍最後の傑作機として日本本土の防空を担うことになります。
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