戦艦「大和」よりスゴかった? 史上最多の被弾で沈んだ“日本最後の戦艦”とは

「温存」で活躍の機会を逃した?

 旧日本海軍が前述したような方針をとったため、死闘が続いたガダルカナル島をめぐる戦いには、最も旧式の金剛型戦艦が投入され、「大和」「武蔵」が戦力として加わることはありませんでした。いっぽうアメリカ海軍は「サウスダコタ」や「ワシントン」などの最新の戦艦を最前線に投入し、ガダルカナル島をめぐる戦いの分水嶺となった第三次ソロモン海戦に勝利しました。
 
「武蔵」が本格的な実戦に参加したのは、1944(昭和19)年6月のマリアナ沖海戦です。連合艦隊の旗艦機能も軽巡洋艦「大淀」や陸上に移ったため、ついに「武蔵」も最前線に投入されることになったのです。

 ただ、ガダルカナル戦の頃と違ってアメリカとの戦力差は大きく開きつつあったほか、戦いの主役となった航空機の脅威も更に増し、「武蔵」が戦局に貢献できるような舞台は既にありませんでした。戦いに臨むにあたって、副砲を撤去して対空機銃を増設するなど、戦訓を踏まえた改装が施されています。
 
 マリアナ沖海戦でも「武蔵」は、目立った戦果を挙げることなく終わっています。そして最後の戦いとなったのが、同年10月に起きたレイテ沖海戦(捷一号作戦)です。栗田健男中将が率いる主力部隊に配属され、「大和」「長門」「金剛」「榛名」などの名だたる日本戦艦と共に、フィリピンのレイテ島へ上陸しようとするアメリカ軍の迎撃へ向かいます。
 
 しかし、途上のシブヤン海でアメリカ海軍艦載機から6回にわたる猛攻撃を受け、ついに沈没。竣工からわずか2年3か月で、その短い生涯を閉じることになりました。ただ攻撃が「武蔵」に集中し、被害を一手に引き受ける形となったため、主力部隊は壊滅を免れることができました。この時受けた被害は魚雷20本、爆弾17発と推定されており、軍艦としては史上最多と言われます。
 
 2015年、マイクロソフト社の共同創業者であるポール・アレン氏が海底に沈む「武蔵」を発見。同年10月には、「武蔵」に艦内神社を分祀した氷川神社(さいたま市大宮区)の境内に「戦艦武蔵の碑」が建立されています。

※一部修正しました(8月5日17時55分)。

【了】

【画像】壮観!これが戦艦「大和」と「武蔵」が並ぶ様子です

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