旧日本軍の駆逐艦が残ってる!「え、コレ…!?」 変わり果てた姿で奇跡の現存 なぜ軍艦が“港の一部”になったのか
北九州港には帝国海軍の駆逐艦が現在も残っています。ただし「防波堤」として。そして一部はコンクリートに完全に埋没しています。戦後復興のため艦艇を転用した通称「軍艦防波堤」、一体なぜそのようなものができたのでしょうか。
台風で破壊されても残った「柳」
その後、1999年の台風で船首ブロックが横にずれるほどに破壊されましたが、当時すでに保存に向かっての動きが出始めていたこともあり、維持管理を行っている北九州市港湾局(現:港湾空港局)は船体の形状を維持するためのコンクリート壁を新設する修復を実施しました。軍艦防波堤を残そうとした、同局の取り組みに敬意を表したいと思います。

現在では、今なお船体の姿を視認できる沈船防波堤としてその価値が認められているほか、土木学会による「近代土木遺産2800選」にも選出。北九州市や若松区のガイドにも載るほどの観光スポットとなっています。周辺の埋め立てが進んだことで、軍艦防波堤は防波堤としての役割を終えているものの、歴史の一証人として、今後も高い存在意義を持ち続けるでしょう。
一方の「涼月」「冬月」は姿を見られませんが、自分の足元に、あの「大和」とともに戦い奇跡的に生還した艦艇が眠っているのか――当時はどんな風に設置されていたのか? 今はどんな状態で埋没しているだろうか? そんな想いを馳せました。
なお、北九州のほかに、現在でも姿を見られる帝国海軍に在籍した沈船防波堤としては、広島県呉市の安浦港に残るコンクリート船「第一武智丸」「第二武智丸」も有名な存在です。
ちなみに軍艦防波堤は、正しくは「響灘沈艦護岸」と呼びます。また、軍艦防波堤と称しているものの、厳密にいうと帝国海軍では駆逐艦などの艦艇は、軍艦に含まれませんでした。さらに、「柳」には初代「柳」のほか、1944(昭和19)年に藤永田造船所で建造された松型駆逐艦の2代目「柳」があり、防波堤に生まれ変わったのは初代の「柳」であることにも注意が必要です。
Writer: 遠藤イヅル
1971年生まれの自動車・鉄道系イラストレーター/ライター。雑誌、WEB媒体で連載を多く持つ。コピックマーカーで描くアナログイラストを得意とする。クルマは商用車や実用車、鉄道ではナローゲージや貨物、通勤電車、路面電車、地方私鉄などを好む。
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