「突然ドカンドカンと2度にわたる鈍い音」 日本戦艦「金剛」の最期 海の「生き地獄」から生還した士官の手記【大戦「その時」】
太平洋戦争中に米空母を追撃するなどの実績で、艦艇ファンの人気も高い旧日本海軍の戦艦「金剛」。なぜ沈没したのか、その運命を分けた瞬間を艦長付副長付兼甲板士官の長山兼敏氏(元海軍大尉)の手記から追います。
この記事の目次
・「天佑を確信し、全軍突撃せよ」艦内に響いた司令
・「大和」から始まった砲撃
・機関室に命中した1発の魚雷
・艦長逃げてください 私も…
・暗黒の海面にみた「生き地獄」
・「駆逐隊だ」 救助されたのはわずか
「天佑を確信し、全軍突撃せよ」艦内に響いた司令
※本記事は月刊『丸』(潮書房光人新社)1977(昭和52)年12月号に掲載された元「金剛」艦長付副長付兼甲板士官・海軍大尉 長山兼敏氏の手記を抜粋・編集したものです。
昭和19年10月22日正午、栗田艦隊は25日未明を期してレイテ湾に突入するため「愛宕」を旗艦とし、「大和」「武蔵」を中心とする第一部隊と、「金剛」「榛名」を中心とする第二部隊とに分かれ、約1万mの距離を保ちながらボルネオ島の西岸にあるブルネイ湾基地を出撃した。
25日未明、サンベルナルジノ海峡を通過し、東方がかすかに白んできたとき、スルアン島灯台の北方95kmの地点で、「金剛」の見張員が東の水平線上に、
「敵マストらしきもの数本、距離3万6000、飛行機多数発進中」
と敵発見を報告した。このため直ちに全艦隊にこれを通報した。
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Writer: 月刊「丸」編集部
1948(昭和23)年2月に創刊した、80年近い歴史をもつ月刊誌。第二次世界大戦における戦争体験者の生の声を収集し、大戦当時の貴重な写真を掲載。発刊元は株式会社潮書房光人新社。




