新宿や有楽町も目指した! 京成が考えた戦後の都心直通構想

押上をターミナルとして開業した京成電鉄。のちに上野にターミナルを建設して都心乗り入れを果たしましたが、終戦直後にはさらに深く都心に入り込む路線を計画したことがあります。幻に終わった都心直通線は、どこを通る予定だったのでしょうか。

京成電鉄が抱える“弱点”

 京成電鉄は2010(平成22)年の成田空港線(成田スカイアクセス線)の開業以降、成田空港連絡路線としての存在感を一段と強めています。ただ、常々指摘されているのが、都心からのアクセスの悪さです。

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成田空港アクセス鉄道としての機能を強化した成田スカイアクセス。特急スカイライナーが160km/hの速度で走る(2010年8月、草町義和撮影)。

 2000(平成12)年の都営浅草線の宝町駅付近から東京駅に分岐する「東京駅接着」構想や、2009(平成21)年の押上~泉岳寺間にバイパス線を整備する「都心直結線」計画など、成田空港へ最短最速ルートを持つ京成へのアクセス性を改善しようというさまざまな試みが浮上しては消えていきました。

 しかし、今回のテーマは都心直結線計画の行方ではありません。そもそも京成はなぜ、ターミナルを押上に置いたのか、そしてその後都心へのアクセス改善のためにどのような苦労をして来たのでしょうか。

もくろみが外れた「押上起点」

 京成電鉄の歴史は1903(明治36)年に出願された、成田山の参拝客輸送を目的とした電気軌道計画に始まります。1907(明治40)年には押上~成田間の特許を取得。1909(明治42)年6月に京成電気軌道(現在の京成電鉄)が設立されました。起点に押上を選択した理由について、『京成電鉄五十五年史』は若干自嘲しながら次のように説明しています。

「起点押上の設定についても、今考えると、なぜあのような場所を選んだのか不審の念を抱かざるを得ませんがこれには相当の根拠があったのです。第1にあげられることは、都心部から千葉・成田方面のルートとしては、既に総武線の両国駅が確固とした地盤を築いていたので、これを避けたこと。次に、市内の二大盛り場である上野・浅草への連絡を容易にすること。その為には、この方面との連絡を予め念頭に置き、万一、不可能な場合は東京市街鉄道(現都電)への乗り入れで果たそうという幾つかの理由で、起点押上が決められたのです」

 京成電気軌道を主導した本多貞次郎や利光鶴松は、東京市街鉄道の出身。両国の駅勢圏から離れ、浅草、上野へのアクセスに有利な場所ということで、同社線との連携を視野に入れて押上を選択したのです。

 京成電気軌道は1959(昭和34)年に改軌するまでは路面電車と同じ1372mmのゲージを採用しており、1910(明治43)年5月には押上から吾嬬村に至る一部区間の架線を路面電車と同じ複線式に設計変更し、電車もトロリーポールを2本装備するなど、路面電車直通による上野、浅草乗り入れに意欲を示していました。ところが大きな誤算が生じます。

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中川橋りょうを渡る京成電気軌道の1形電車。路面電車に合わせ、トロリーポールを2本使う架空複線式電車線方式を採用した(出典:『京成電鉄85年の歩み』)。

 まず開業前年の1911(明治44)年8月、東京市が民営の路面電車を買収して東京市電が誕生。市域への私鉄乗り入れに消極的な姿勢に変わってしまいます。また、当初は四ツ目通り沿いに設置する予定だった押上駅は、十間川の浚渫(しゅんせつ)改良工事によって川の北側まで後退を余儀なくされます。1913(大正2)年11月に押上まで市電が開通しますが、線路の直結はついに実現しませんでした。

 京成にとって押上は満足できるターミナルではありませんでしたが、明治末から周辺の市街化が急速に進み、市電も開通したということで、当面の起点とすることになったのです。

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押上駅の近くで北十間川を通る、四ツ目通りの京成橋。当初は四ツ目通り沿いに始発駅を置くはずだったが北十間川で遮られ、市電と接続できなかった(2018年6月、草町義和撮影)。

 京成電気軌道は、次々と路線を延伸していきます。1916(大正5)年12月に船橋、1921(大正10)年7月に千葉まで開業すると、非電化の省電に対して圧倒的優位に立ちます。こうして事業基盤を確立した京成は、いよいよ社運をかけて都心進出に取り組むことになるのです。

疑獄事件を経て上野乗り入れを果たす

 最初の都心乗り入れ計画は1923(大正12)年4月28日に出願。荒川駅(現在の八広駅)から分岐して東武線を越えて白鬚橋を渡り、新吉原遊郭前、入谷を経由して下車坂六番地(現在の上野6丁目)に達する5.6kmの路線です。のちの上野線(現在の京成本線)よりも短絡ルートで乗り入れる意欲的な計画でした。

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第1回出願線(荒川~下谷車坂間)と押上線、上野線の比較(「今昔マップ on the web」を使用し枝久保達也作成)。

 ところが、出願から4か月後に関東大震災が発生。震災復興計画との関係から上野延伸は見通しが立たなくなってしまったため、押上から浅草に乗り入れる計画に軌道修正することになりました。

 こうして同年11月に上野延伸を取り下げ、新たに申請したのが押上から延伸して隅田川を横断し、浅草茶屋町(現在の雷門一丁目)に乗り入れる路線です。この出願を嚆矢(こうし)として経由地と終点を変更しながら、4年間の間に5回もの免許申請が繰り返されたのです。

・第1回 浅草茶屋町ルート 1923年11月申請 1924年11月取下
・第2回 浅草花川戸ルート 1924年11月申請 1925年4月取下
・第3回 浅草材木町ルート 1925年4月申請 1926年2月取下
・第4回 浅草花川戸ルート 1927年3月申請 1927年10月取下
・第5回 浅草花川戸ルート 1927年10月申請

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浅草延伸線の第3回申請(材木町ルート)と第5回申請(花川戸ルート)の比較(「今昔マップ on the web」を使用し枝久保達也作成)。

 この間、特筆すべきは第3回の浅草材木町ルート申請後の1925(大正14)年5月に鉄道大臣宛に送られた陳情書です。同年3月に決定された日本初の地下鉄整備計画に関して、次のような提案をしています。

「市内高速鉄道路線第1号線『五反田より押上に至る』に準拠し之に敷設せしむるに於いては犠牲の頻度著しく減少するのみならず、江東の一角に東武線京成線及び都市計画議定線の3線併行の煩を避け且つ他日、本市に於て交通機関統一の上に資する所甚だ多く一挙数得の挙たるを信ずる」

 京成の浅草延伸線は地下鉄1号線の押上~浅草間と一体的に整備するのが「一挙数得」だとして、地下鉄規格で建設することを提案したのです。この時点では明記されていませんが、都心中枢まで直通することを視野に入れた構想だったことは間違いないでしょう。

 たださすがに計画全体への影響が大きいため実現の見通しが立たず、再び花川戸ルートでの乗り入れを模索していくことになります。

 最後の出願となった第5回申請に対しては鉄道省の支持もあり、当初反対に回っていた東京市議会も容認論に傾いたことで、ようやく浅草延伸に実現の目途が立ちました。しかし、その裏に市議会への不正な資金供与があったことが発覚、社長以下幹部が逮捕される「京成電車疑獄事件」へと発展してしまいます。

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開業直後の上野線。全線立体交差の高規格路線として建設された(出典:『京成電鉄85年の歩み』)。

 浅草延伸を断念せざるを得ない状況に追い込まれた京成は、筑波高速度電気鉄道の免許を転用して上野延伸を目指すことになります。上野線は1931(昭和6)年12月に青砥~日暮里間、1933(昭和8)年12月に日暮里~京成上野間を開業させ、悲願の都心進出を果たしました。

大江戸線ルートで新宿を目指す

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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)

1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx

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