新宿や有楽町も目指した! 京成が考えた戦後の都心直通構想
押上をターミナルとして開業した京成電鉄。のちに上野にターミナルを建設して都心乗り入れを果たしましたが、終戦直後にはさらに深く都心に入り込む路線を計画したことがあります。幻に終わった都心直通線は、どこを通る予定だったのでしょうか。
京成電鉄が抱える“弱点”
京成電鉄は2010(平成22)年の成田空港線(成田スカイアクセス線)の開業以降、成田空港連絡路線としての存在感を一段と強めています。ただ、常々指摘されているのが、都心からのアクセスの悪さです。
2000(平成12)年の都営浅草線の宝町駅付近から東京駅に分岐する「東京駅接着」構想や、2009(平成21)年の押上~泉岳寺間にバイパス線を整備する「都心直結線」計画など、成田空港へ最短最速ルートを持つ京成へのアクセス性を改善しようというさまざまな試みが浮上しては消えていきました。
しかし、今回のテーマは都心直結線計画の行方ではありません。そもそも京成はなぜ、ターミナルを押上に置いたのか、そしてその後都心へのアクセス改善のためにどのような苦労をして来たのでしょうか。
もくろみが外れた「押上起点」
京成電鉄の歴史は1903(明治36)年に出願された、成田山の参拝客輸送を目的とした電気軌道計画に始まります。1907(明治40)年には押上~成田間の特許を取得。1909(明治42)年6月に京成電気軌道(現在の京成電鉄)が設立されました。起点に押上を選択した理由について、『京成電鉄五十五年史』は若干自嘲しながら次のように説明しています。
「起点押上の設定についても、今考えると、なぜあのような場所を選んだのか不審の念を抱かざるを得ませんがこれには相当の根拠があったのです。第1にあげられることは、都心部から千葉・成田方面のルートとしては、既に総武線の両国駅が確固とした地盤を築いていたので、これを避けたこと。次に、市内の二大盛り場である上野・浅草への連絡を容易にすること。その為には、この方面との連絡を予め念頭に置き、万一、不可能な場合は東京市街鉄道(現都電)への乗り入れで果たそうという幾つかの理由で、起点押上が決められたのです」
京成電気軌道を主導した本多貞次郎や利光鶴松は、東京市街鉄道の出身。両国の駅勢圏から離れ、浅草、上野へのアクセスに有利な場所ということで、同社線との連携を視野に入れて押上を選択したのです。
京成電気軌道は1959(昭和34)年に改軌するまでは路面電車と同じ1372mmのゲージを採用しており、1910(明治43)年5月には押上から吾嬬村に至る一部区間の架線を路面電車と同じ複線式に設計変更し、電車もトロリーポールを2本装備するなど、路面電車直通による上野、浅草乗り入れに意欲を示していました。ところが大きな誤算が生じます。
まず開業前年の1911(明治44)年8月、東京市が民営の路面電車を買収して東京市電が誕生。市域への私鉄乗り入れに消極的な姿勢に変わってしまいます。また、当初は四ツ目通り沿いに設置する予定だった押上駅は、十間川の浚渫(しゅんせつ)改良工事によって川の北側まで後退を余儀なくされます。1913(大正2)年11月に押上まで市電が開通しますが、線路の直結はついに実現しませんでした。
京成にとって押上は満足できるターミナルではありませんでしたが、明治末から周辺の市街化が急速に進み、市電も開通したということで、当面の起点とすることになったのです。
残り2725文字
この続きは有料会員登録をすると読むことができます。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
コメント