100年先の鉄道を見通した男がいた 国鉄「アイデアマン」木下淑夫が目指したもの

訪日外国人観光客の誘致が叫ばれる昨今ですが、実は100年以上前にも訪日客の獲得をもくろみ、さまざまな施策を実施した国鉄職員がいました。彼はどのような経緯で「インバウンド」を推進しようと考えたのでしょうか。

時代を先取りした男

 これからの鉄道はサービスを重視しなければいけない、乗せてやるのではなく、乗っていただくのだ……そう説いた鉄道マンがいました。

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JR東日本の豪華寝台列車(クルーズトレイン)「TRAIN SUITE 四季島」。そのルーツは100年以上前の鉄道マンが企画した「廻遊列車」だ(2016年10月、草町義和撮影)。

 彼は鉄道を利用した新しいツーリズムの実現を目指し、列車で観光地を巡りながら旅をする「クルーズトレイン」を提案したり、訪日外国人旅客の獲得を目指して海外での旅客誘致に努めたり、駅員に語学教育を実施するなど尽力しました。

 一方で彼は鉄道の行く末についても真剣に考えます。ローカル線では必ずしも鉄道という形態にこだわらずバスを活用した方が良い、鉄道は大量輸送、高速運転という特性を活かした幹線輸送に特化するべきだ、と。彼が思い描いた鉄道像は、ここ10年でどんどん形になっています。

 この人物はJRの社長でしょうか、国土交通省の幹部でしょうか。それともやり手のコンサルタントか、大物鉄道評論家か。

 実は、これらを唱えたのはいまから100年以上前、国鉄の運輸、旅客部門で活躍した木下淑夫という人物。彼は1906(明治39)年の鉄道国有化以前に官設鉄道(官鉄)に入り、国有化後にいまに続く鉄道の基礎を作りました。

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サービス向上のためのさまざまなアイデアを実行に移した木下淑夫(出典:『国鉄興隆時代 木下運輸二十年』)。

 木下淑夫は1874(明治7)年、京都府熊野郡(現在の京丹後市)に生まれました。勉学を志して京都の旧制三高(京都大学の前身のひとつ)に入学するも、途中で工学を志し仙台の旧制二高に移り、東京帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒業します。さら大学院に進み、法律と経済を学びました。

 勉学だけでなく、スポーツでもボート競技や長距離走で数々の賞を獲得したといいます。若くからさまざまな分野にチャレンジし、広く知識を重ねたことが、のちの広い視野につながったのでしょう。

官鉄にサービスと営利を…寝台車や食堂車の導入を推進

 帝国大学大学院を卒業した木下は1899(明治32)年、官鉄の運営組織だった逓信省鉄道作業局に就職します。

 このとき、すでに北海道から九州まで主要な幹線は開業していましたが、その大半が私設鉄道として開業した路線。官鉄は東海道線、北陸線、信越線、奧羽北線、奧羽南線くらいのものでした。

 私鉄は社長自ら陣頭指揮を執り、ソフト、ハードの両面からあの手この手の旅客誘致に努めていました。一方で官鉄は「乗車券は釣り銭の無いように買え」とか「発車の15分前に駅に来るように」とか、旧態依然の意識が拭えなかったのです。

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国鉄初の寝台車は米国製だった(出典:『日本国有鉄道百年史(通史)』)。

 1901(明治34)年に技師兼旅客係を拝命した木下は、さっそく初の食堂車や寝台車の導入を実現するなど、私鉄との本格的なサービス競争に乗り出します。そのなかでも特に激しいサービス競争を繰り広げたのが、名古屋~大阪間で官鉄と並行する私鉄・関西鉄道(現在のJR関西本線)でした。

 1902(明治35)年に営業掛長に昇進した木下は、割引運賃を設定すると、時刻表を添えた案内チラシを配布して大々的にPRするなど徹底抗戦を行い、ついに関西鉄道に矛を収めさせたのです。それまで「乗せてやる」だった官鉄が「乗っていただく」ために真っ向勝負を繰り広げたことは、さまざまな方面に大きな衝撃を与えました。

 しかし、この不毛でゆがんだ競争は非常に反省と教訓が大きかったようで、木下は海外の鉄道営業を一から学び直したいという思いを強くして留学を決意。1904(明治37)年から1907(明治39)年まで、米国や英国、ドイツなどで食堂車、ステーションホテル、駅食堂など旅客サービスや、鉄道経営、運賃制度などを学びます。

 木下が海外留学しているあいだに、日本の鉄道は大きな転機を迎えます。日露戦争とその教訓を踏まえた鉄道国有化です。帰国した木下は、鉄道作業局から改組された帝国鉄道庁の旅客課長に就任し、1908(明治40)年12月に新設された鉄道院でも引き続きその任にあたることとなりました。

 日本全国の17私鉄を買収した国有鉄道がまず着手したのは、各社寄せ集めの設備や規程の整理でした。1872(明治5)年の鉄道開業以来、「積み上げ式」に作られてきた複雑な営業制度を抜本的に改め、各私鉄の良いところと米国式のサービス主義、営業主義を取り入れた「新生・国有鉄道」の営業規程を作り上げます。

 この作業には4年もの月日が費やされました。現在の鉄道営業の基礎は、明治末から大正はじめにかけて木下によって築かれたものと言っても過言ではありません。

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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)

1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx

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