【都市鉄道の歴史を探る】戦後再び浮上した「大東急」構想 五島慶太の「私見」とは
戦後、東京圏の鉄道とバスを全て経営統合しようという考えをぶち上げた人がいました。戦前から戦時中にかけて「大東急」と呼ばれる鉄道ネットワークを構築した東急グループの創始者・五島慶太です。彼はなぜ、鉄道の統合を再び目指したのでしょうか。
東京の鉄道を全部統合
東京の都市圏人口は1970年代、米国のニューヨークを超えて3500万人になりました。近年はソウルやデリー、マニラ、ジャカルタなどアジア圏の大都市に追い上げられながらも、依然として世界最大の都市の座を保ち続けています。
首都東京が急速に拡大したのは、第一次世界大戦期を経て日本の商工業が大きく成長してからのことです。1920(大正9)年から1940(昭和15)年までの20年間で東京の人口は倍増。ロンドンやパリを超えてニューヨークに次ぐ世界第二の都市になりました。
しかし、これら欧米の大都市とは異なり、東京の都市交通網は人口規模に全く見合ったものではなく、道路整備は遅れ、鉄道は激しく混雑していました。一方このころ、欧米の大都市交通は複数の私鉄を市営または公営企業にまとめ、公的な資金を投入し着実に路線整備を進めています。
そこで日本でも都市周辺に独立した私鉄が多数存在する状況を改め、交通機関を一法人のもとに再編成することで新線建設と鉄道運営をもっと合理的に進め、理想的な交通網を構築するべきではないかという議論が、1930年代から本格化しました。
東京の人口は戦争で一度大きく減少するも、復興とともに戦前以上のペースで人口増加が進みました。1960年代初頭には1000万人を超えると予測されたことから、交通網の整備促進はこれまでになく喫緊の課題となっていました。
これに対し1956(昭和31)年、交通事業者の大統合を行い、東京の交通問題を解決すべきと提唱した人がいました。彼のプランは次のようなものでした。
・国有鉄道の山手線、京浜線、横須賀線、中央線、総武線、東北線等都内に発着する線の電車区間を国鉄より分離すること
・帝都高速度交通営団を廃止すること
・前記国鉄電車線と地下鉄、都電、バスを加えて、新たに東京都の交通を一元的に担当する法人を設立すること
・東京都の周辺私鉄七社を全部右新法人に合併すること
都市の鉄道を全部まとめて、私鉄も合併させてしまうという、これだけの規模のアイデアを暖めていたのは東京都知事でしょうか。それとも運輸大臣か、時の総理大臣でしょうか。
五島慶太の「東京都の交通調整に対する私見」
実はこれ、東急グループの創始者で、当時東急電鉄の取締役会長であった五島慶太(ごとうけいた)が「東京都の交通調整に対する私見」と題して発表したものです。
これまで「都市鉄道の歴史を探る」シリーズで紹介してきたように、東京の都市交通の歴史は「国」と「東京市(都)」と「民間」のせめぎあいでした。早川徳次の地下鉄建設計画から始まり、東京市営地下鉄構想が浮上するも実現せず、結局は民間地下鉄を統合して帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が設立されました。
戦後になって東京都は営団廃止と都営地下鉄設立を唱え(「浮かんでは消えた『都営地下鉄』構想 『営団』廃止の主張も」参照)、私鉄は営団と都を尻目に独自の都心直通線構想を構想し(「小田急は東京駅に乗り入れるつもりだった 知られざる戦後の都心直通構想」参照)、国鉄は「我関せず」と自前のネットワーク増強を着々と進めていました(「京浜東北線と山手線 線路『共有』から『分離』への長い道程」参照)。
この間、五島慶太は「鉄道は民間に任せるべき」と唱え続けていました。東急電鉄も都心直通線実現のためにさまざまな働きかけをしていたこの時期に、五島慶太はどうしてこのような「大統合案」をぶち上げたのでしょうか。
「役人はつまらない」実業家に転身
五島慶太は1882(明治15)年に長野県の山奥に生まれ、高等師範学校(現在の筑波大学の前身のひとつ)を卒業して一度は教師になるも、帝国大学(現在の東京大学)に入りなおし、29歳で官僚に転身した異色の経歴の持ち主です。農商務省(農林水産省と経済産業省の前身)に一年務めたあと、鉄道院に転属しました。
ところが、鉄道院が鉄道省に昇格した1920(大正9)年、鉄道監督局総務課長を務めていた五島は、9年間の役人生活にあっさりと見切りをつけて退官してしまうのです。後藤はのちに、このときのことを次のように振り返っています。
「そもそも官吏というものは、人生の最も盛んな期間を役所の中で一生懸命働いて、ようやく完成の域に達する頃には、もはや従来の仕事から離れてしまわなければならないものだ。若い頃から自分の心に適った事業を起こして、これを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、こんな官吏生活はいかにもつまらない。十年近い官吏生活を経験した私は、次第にこのような考えをいだくようになったのである」
(出典:五島慶太『七十年の人生』24ページ)
五島は「事業は永続性のあるもの」という信念を持っていました。そして本当の事業とは、自分が働いて自分が儲けた金によってやらなければ形にならないとも思っていました。
数年おきに入れ替わる役人が、税金を使って行う事業などうまくいくわけがないし、何よりそんな仕事はつまらないと考えた彼は、自分が一生をかけて打ち込める実業界に飛び込むことにしたのです。
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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx