【都市鉄道の歴史をたどる】「混雑率300%」に挑んだ戦後の時差通勤
「時差通勤」はもともと戦時の非常態勢を乗り切るために考案されたものでしたが、終戦後しばらくして再び時差通勤が奨励されます。混雑率が300%台という危機的な状況に、国や国鉄はどのように取り組んだのでしょうか。
戦時の時差通勤は「非常手段」
「戦時中に行われた『時差通勤』 その効果はあったのか」では、英国や日本で行われた戦時中の時差通勤の取り組みを紹介しました。この取り組みは戦後、再び行われることになります。
時差通勤は国家の生産力、輸送力を総動員して遂行する総力戦となった第2次世界大戦において、戦時統制の一環として世界各地で行われました。しかしこれは、特定の人々の移動に強い制限をかけることにほかなりません。実施上に伴う個人の負担や犠牲が大きいため、特に自由主義諸国においては戦争など非常時の場合を除いて実施は困難と考えられていました。
戦争が終わって都心から郊外に人口が分散すると、長距離通勤者が増加します。これらの人々は朝の8時以前に都心に到着することは困難ですし、始業時刻を遅らせると今度は終業時刻が大幅に遅くなってしまいます。せっかく平和が訪れたのに家族と過ごす時間が奪われたままというのは、市民にとって受け入れがたいものでした。
また経済団体からも、会社や個人ごとに勤務時間をずらすと、関連する官庁や会社など相互の業務が円滑に遂行できなくなり、都心の活動の能率が低下するといった批判が寄せられました。
それでもやむなく時差通勤を継続した事例もあります。時差通勤の先駆者ロンドンでは、戦争が終わったことで工場の残業が減少したため、終業が17~18時に集中。さらに1946(昭和21)年から1週間5日44時間制を採用したことで、始業時間、終業時間とも特定の時間に集中する傾向が強まったため、引き続き混雑緩和を目的とした時差通勤が行われました。
高度経済成長に伴い「非常手段」再び
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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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