【都市鉄道の歴史をたどる】「混雑率300%」に挑んだ戦後の時差通勤

「時差通勤」はもともと戦時の非常態勢を乗り切るために考案されたものでしたが、終戦後しばらくして再び時差通勤が奨励されます。混雑率が300%台という危機的な状況に、国や国鉄はどのように取り組んだのでしょうか。

戦時の時差通勤は「非常手段」

「戦時中に行われた『時差通勤』 その効果はあったのか」では、英国や日本で行われた戦時中の時差通勤の取り組みを紹介しました。この取り組みは戦後、再び行われることになります。

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いまでは混雑率が200%未満に「改善」された中央・総武緩行線。かつては300%を超えたこともある(2018年7月、草町義和撮影)。

 時差通勤は国家の生産力、輸送力を総動員して遂行する総力戦となった第2次世界大戦において、戦時統制の一環として世界各地で行われました。しかしこれは、特定の人々の移動に強い制限をかけることにほかなりません。実施上に伴う個人の負担や犠牲が大きいため、特に自由主義諸国においては戦争など非常時の場合を除いて実施は困難と考えられていました。

 戦争が終わって都心から郊外に人口が分散すると、長距離通勤者が増加します。これらの人々は朝の8時以前に都心に到着することは困難ですし、始業時刻を遅らせると今度は終業時刻が大幅に遅くなってしまいます。せっかく平和が訪れたのに家族と過ごす時間が奪われたままというのは、市民にとって受け入れがたいものでした。

 また経済団体からも、会社や個人ごとに勤務時間をずらすと、関連する官庁や会社など相互の業務が円滑に遂行できなくなり、都心の活動の能率が低下するといった批判が寄せられました。

 それでもやむなく時差通勤を継続した事例もあります。時差通勤の先駆者ロンドンでは、戦争が終わったことで工場の残業が減少したため、終業が17~18時に集中。さらに1946(昭和21)年から1週間5日44時間制を採用したことで、始業時間、終業時間とも特定の時間に集中する傾向が強まったため、引き続き混雑緩和を目的とした時差通勤が行われました。

高度経済成長に伴い「非常手段」再び

 経済白書に「もはや戦後ではない」と記されたのは1956(昭和31)年のこと。しかし、皮肉にもこのころから再び時差通勤の必要性が唱えられます。

 焼け跡から立ち上がり、高度経済成長へと第一歩を踏み出したこの時代、東京は都市圏を拡大し、人口も急激に増加します。人口増加はそのまま通勤通学者の増加につながり、その増加率は人口の増加率をも上回っていました。

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1955年から1960年までの人口と定期利用者の増加グラフ。人口が17%増えたのに対して定期利用者は46%増加している(長島健「時差通勤」『運輸』12巻1号を参考に枝久保達也作成)。

 国鉄は山手線と京浜東北線の分離工事を行い、営団地下鉄は戦後初の新線・丸ノ内線の建設に着手するなど輸送力増強工事を進めます。しかし、利用者は輸送力の増加をはるかに上回るペースで増え続けました。新たな複々線化や新線建設が次々に計画されますが、工事が完成するまで相当の年月がかかります。

 この緊急事態に対して1956(昭和31)年、運輸省の都市交通課長を務めていた角本良平は「時差通勤の必要と可能性」を発表し、再び時差通勤を行うべきだと主張しました。

 戦後の時差通勤はまず、通勤者と通学者の分離を図ることから始まりました。1959(昭和34)年、都内のほとんどの学校が8時半から9時の始業になっていることに着目した国鉄は、始業時間を8時以前か9時半以降にするよう呼びかけ、43校(約6万人)の協力を取り付けます。当時の中央線では、定期券利用者の4割が学生、生徒だったので、かなりの効果がありました。

 続いて国鉄は、時差通勤を一般企業にも拡大させようと考えます。

 1960(昭和35)年の春、朝ラッシュの1時間に1日の輸送量の46%が集中する鶴見線をモデル線に選定し、沿線の工場などに始業時間の変更を依頼しました。依頼前は沿線企業の3分の2で始業時間が8時になっていましたが逐次変更してもらい、ピーク混雑率を321%から266%まで緩和することに成功しました。

 時差通勤の効果が明らかになり、企業や学校から協力が得られることも分かったので、国鉄は1960(昭和35)年の冬から、時差通勤への協力を呼びかけることになりました。

 当時の中央線快速・新宿~四ツ谷間上り方面は、8時から8時半までの30分間に6万7000人を輸送し、乗車率は321%にも達していました。国鉄の試算によれば、このうち3000人を8時より前に、1万人を8時半より後ろの時間帯に移して、ピークの利用者を5万4000人まで減らせば乗車率は260%にまで低減します。

 いまから見れば、それでもあり得ない混雑率でした。しかし、目の前の混雑をとにかく少しでも減らさなければ輸送がパンクする瀬戸際にあったのです。

「国電大混乱」が国に与えた衝撃

 その懸念はすぐに的中してしまいます。1961(昭和36)年1月上旬から約半月にわたり、朝ラッシュ時間帯の中央線、京浜東北線が連日20分以上遅れるという大混乱が生じ、大きな批判を受けることになってしまったのです。

 もともと冬は鉄道が遅れやすい季節です。寒さのためにギリギリの時間まで家にいる人が多くなって出勤時間が集中しがちなうえ、防寒具によって体の容積は2~3割ほど増加して車内が混み合います。動きも鈍くなるため、乗降に時間もかかります。

 それまで超満員電車ながらもギリギリ持ちこたえていた輸送力が、このときついに限界を突破してしまいました。満員電車に乗り切れない人が続出し、それでも無理やり乗り込もうとする人で停車時間が長引き、極端な場合は1駅に10~15分停車する事態となりました。

 電車の運転がマヒ状態となり、輸送力は極端に低下。さらに混雑が悪化する悪循環に陥ってしまったのです。この混乱が報じられると、電車に乗れず通勤、通学できなくなることを恐れた乗客がいっそう集中するようになり、連日遅れが続いたのです。

 たとえば1961(昭和36)年1月20日の中央線快速では、ラッシュ時間帯は本来2分間隔運転であるところ、ピーク30分間に東京駅に到着した列車はわずか5本でした。さらに激しい混雑によって電車の窓ガラスが毎日100枚近く割れ、負傷者も発生しています。

 この騒動は国鉄以上に政府に衝撃を与えました。大きく成長し始めていた経済活動が輸送力不足によって失速させてしまうこと、さらに国民のあいだに不満が広がることを恐れたのです。政府の交通対策本部は、すぐさま東京および近郊の事業所、学校に対して時差通勤に協力するよう通達を出し、この混乱は何とか鎮静化しました。

 1961(昭和36)年11月、交通対策本部は時差通勤を冬季だけでなく通年実施する必要があるとして、都心部に所在する官公庁、事業所、学校等に対し、通勤通学時の混雑緩和に協力するために就業、就学時間について適時実情に応じた措置を取ることを要請。また、鉄道事業者に対しては通勤通学における混雑を緩和、均等化するため合理的な時差通勤実施計画を作成し、強力に推進するよう求めました。

 国鉄も新聞、雑誌、テレビ、ラジオでなどでPR活動を実施し、時差通勤の必要性を広く社会に呼び掛けました。さらに、駅ごとに最寄りの事業者や学校の責任者を集めて座談会を開き、協力を依頼したのです。

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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)

東京メトロ勤務を経て2017年に独立。江東区・江戸川区を走った幻の電車「城東電気軌道」の研究や、東京の都市交通史を中心としたブログ「Rail to Utopia」を中心に活動をしている。鉄道史学会所属。

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