2万トン級戦艦を沈めた「豆粒」 イタリア極小魚雷艇の大戦果 海軍の金言に刻まれた勇気
小型艇による弩級戦艦撃沈の大金星
さらに第1次世界大戦末期の1918(大正7)年、M.A.S艇は“超大物”といえる敵艦を撃沈する大戦果を挙げています。6月10日、リッツオ大尉(中尉から昇任)は「M.A.S.15」艇に新たに乗り込み、「M.A.S.21」艇を率いてクロアチア沖のプレムーダ島付近で敵のオーストリア・ハンガリー艦隊に待ち伏せ攻撃を仕掛けます。両艇は、明け方に敵艦隊を発見すると、爆音を轟かして小島の陰から巨大戦艦を目がけて突進、魚雷戦を開始したのでした。
まず「M.A.S.21」艇が最後尾を進む弩級戦艦「テゲトフ」に魚雷を放ちますが、1本は目標に到達せず、残る1本は不発でした。しかし、リッツオ大尉の「M.A.S.15」艇は、先頭を行く艦をすり抜けた後で右にターンし、艦隊中央を進む戦艦「スツェント・イストファン」(英語読みセント・イシュトヴァーン)の右舷に取り付きます。そして追い抜きざまに放った魚雷が、敵艦に命中し爆発。「M.A.S.15」艇は急転回して戦艦の副砲の反撃を避け、高速を活かして追っ手の水雷艇を振り切り見事、生還します。
被雷した戦艦「スツェント・イストファン」は浸水に耐えきれず約3時間後に横転沈没。乗組員1000名の大部分は脱出を果たしましたが、機関室の89名は艦と運命を共にしたといいます。
こうして小型艇による排水量2万トンクラスの弩級戦艦撃沈という前代未聞の大金星を挙げた「M.A.S.15」艇は、その後ローマのヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂に展示され、今もイタリア海軍史の金字塔としてその勇姿を伝えています。
このような実績を作ったからこそ、第1次世界大戦後もM.A.S.艇は魚雷艇として進化を続けます。そして第2次世界大戦でも用いられ、遠くはロシア戦線の黒海やラドガ湖に派遣され、そこでも戦果を挙げ、イタリア海軍の「搭乗員の勇気」を示し続けたのでした。
【了】
Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)
1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。
色々不正確
>イタリアが第1次世界大戦に参戦した1915(大正4)年5月~
イタリア参戦時、4隻の内「セント・イシュトヴァーン」は未就役。
>そのためイタリア海軍は~
主に潜水艦の脅威が理由
>敵であるオーストリア・ハンガリー海軍をアドリア海に面した各港に封じ込める作戦を取ったのです~
オトラント海峡封鎖は、潜水艦の地中海への進出を防ぐのが目的
>敵のオーストリア・ハンガリー艦隊に待ち伏せ攻撃を仕掛けます
偶然遭遇しただけでしょう。