「コンコルドよりお先に~」なソ連 人類の夢「超音速旅客機」開発合戦 始まりは半世紀前
なぜダメだった「コンコルド」 機内はどんなの?
「コンコルド」が旅客機史上の主役になれなかった要因は、騒音の大きいことや、燃料消費量が多く航続距離が約7200km(東京~オーストラリア・ブリスベンに相当)と、大西洋横断くらいの範囲に留まってしまうこと、最大離陸重量を抑えるために大型化できず、収益性が悪かったことなどでしょうか。21世紀に入り、機齢も古く、事故歴もあったにも関わらず、最後までフライトを続けようとしていたのは、この機にイギリス・フランスの威信がかかっていたのかもしれません。
なお、「コンコルド」はこれまで何度か来日したことがあります。最初は、1972(昭和47)年に世界一周デモンストレ-ションの途中で飛来。これを含め計4回、羽田空港へやってきました。このほか、「長崎旅博覧会」におけるチャーター便として長崎空港へ、開港記念チャーター便で関西空港へ飛来。3空港に計6回というのが同機の来日記録です。
実は、筆者(種山雅夫:元航空科学博物館展示部長 学芸員)は、関西空港開港日の次の日に、「コンコルド」の離着陸を展望ホール屋上から見ることができました。着陸する「コンコルド」は滑らかにスッと降りて来た一方で、離陸時はまさに「耳をつんざくような」フルパワーのエンジン音と空気の振動音に、非常にワクワクしたのを覚えています。
また、実はかつてエールフランスの格納庫で機内を見学させていただいたことがあるのですが、客室が狭くて、なぜだか国産ターボプロップ機YS-11のように感じられたことと、コクピットにぎっしり配置された計器が印象的でした。
一度でよいから、音速を超える瞬間を味わってみたいというのもありますし、新世代SST「オーバーチュア」のデビュー予定となる2029年には大いに期待したいものです。
【了】
※一部修正しました(6月17日10時18分)。
Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)
成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。
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