戦時下の国民はなぜ「献納機」に熱狂したか 職場で 募金で 子供の小遣いで…軍用機を献納
ブームを巻き起こした「献納機」運動
自分たちの寄付金で軍用機が購入されるというやり方は宣伝効果が高く、「献納機」を目的とした献金の気運に火がつくことになりました。献納された軍用機は旧陸軍では「愛国号」、旧海軍では「報国号」と名付けられ、通し番号と献納者の名前が機体に書かれました。
機種は爆撃機から偵察機、戦闘機など多岐にわたり、献納者も各種組合や職場、保険会社や新聞社の募金、投資で財を成した篤志家、さらには子供たちがお小遣いを出し合って献金したという形のものまでありました。
「献納機」の命名式は国民的イベントに
「献納機」が完成すると命名式でお披露目されます。式典には陸海軍の大臣などを始めとした軍関係者や献納者の代表、それに大勢の観客が参列、会場では記念グッズや絵葉書などが販売されるため、その命名式はちょっとしたイベントのようなものでした。
このように大々的に行われることから、「献納機」の命名式は新聞でも報道され、瞬く間に国民のあいだで関心が高まります。この動きは朝鮮半島や満洲、台湾にも波及するとともに、国民の戦意高揚にひと役買っていました。
実際のところ、民間からの献金は鉄兜を始め各種兵器の調達にも充てられていたものの、それらに比べると「献納機」は華やかでわかりやすい形であったため、特に注目されたといえるでしょう。
「献納機」がどのくらい造られたかは、多くの史料が失われており正確な数字はわかっていません。通し番号は太平洋戦争末期までにおよそ陸軍が約7000、海軍が約6000を超えています。しかし通し番号どおりの機数はなく、実際はもっと少なくて、陸海軍それぞれが5000機ぐらいではないかと推察されています。
当時の国民と戦争の関わりを象徴する「献納機」、そして献納した人々の名前は戦後ほとんど忘れ去られて、歴史の片隅に写真として残っています。
【了】
Writer: 時実雅信(軍事ライター、編集者、翻訳家)
軍事雑誌や書籍の編集。日本海軍、欧米海軍の艦艇や軍用機、戦史の記事を執筆するとともに、ニュートン・ミリタリーシリーズで、アメリカ空軍戦闘機。F-22ラプター、F-35ライトニングⅡの翻訳本がある。
宝くじで1等が当たったら軽装甲機動車1台(@3千万)を陸自に献納したいと思ってます。
名前は…
萌え萌えきゅん(はぁと)号
とかにした痛車仕様で。
その状態での部隊配備を希望します。