「三菱スペース・ジェット」実用化さらに遠のく… どこでYS-11やホンダ・ジェットと差がついた?
3号機の登録抹消・米の飛行試験拠点の閉鎖が報じられ、実用化が遠のく三菱航空機の「スペース・ジェット」。YS-11やホンダジェットなどとは、どこが違かったのでしょうか。その差を比較してみます。
MRJ改めMSJ 実用化さらに遠のく
「いったん立ちどまる」とのコメントを残し、開発をほとんどストップしていた三菱航空機の旅客機「スペース・ジェット(元MRJ)」は、また一歩、実用化への道が遠のきそうです。2022年3月には、「航空の用を供さない」として、3号機の国土交通省登録を抹消。アメリカにあった飛行試験の拠点も、3月末をもって閉鎖されたと報じられています。
国産のジェット旅客機を実用化することは、ここまで困難なことなのでしょうか。
開発に苦戦している「スペース・ジェット」は、かつての国産ターボ・プロップ機YS-11とよく比較されます。日本が開発し、実用化に至ったリージョナル機(地方間輸送のための旅客機)としては、YS-11は日本では“金字塔”と称されることもあるでしょう。
第二次世界大戦後で航空機の運用、開発、製造が禁止された日本は、1950年代初頭に禁止が解除されると、日本の航空会社による定期便の運航が開始されます。その一方で、開発、製造に関してはアメリカの設計した機体のライセンス生産に留まっていました。そのような状況の中で、経済産業省が、航空分野の発展を図り、日本に元気を取り戻すことを念頭に、国産リージョナル機の開発を推進しました。これが、YS-11です。
YS-11は「七人のサムライ」と呼ばれた当時の航空機設計者の達人らが開発を主導し(一番大変だったのは設計ではなく調整だったと記録に残っていますが)、1964年、東京五輪の日本国内聖火輸送に使用。いわば「日本の復興の象徴」として国内にその名をとどろかせました。
機体としては、地方間輸送のターボ・プロップ機としては後発だったこともあり、先行機の設計も存分に参考にした結果、世界数か国からオファーがあり、アメリカのエアラインからも受注しています。
とはいえ、YS-11も、ビジネスとしては成功を収めたわけではありません。
大田稔、菊原静男、木村秀政
土井武夫、堀越二郎の5人では。手許に在る前間孝則著「YS11」より。