「氷川丸」=“軍艦氷川”って? シアトル航路のセレブ船から戦場へ 波乱の生涯

海軍特設「病院船」になる

 1941(昭和16)年に日米関係が悪化してシアトル航路が閉鎖されると、『氷川丸』『日枝丸』『平安丸』は当初の予定どおり、そろって海軍に徴傭されました。このうち『日枝丸』『平安丸』は特設潜水母艦に改装されましたが、『氷川丸』は病院船となりました。船体を白く塗り、緑の線を入れ、赤十字を舷側、ブリッジ、煙突、ボートデッキ上に描き、さらにハウストップの煙突後方には周囲に赤いイルミネーションを施した十字の布板を付けました。

 この改装工事は12月1日から21日までの短期間に行われたため、完璧とは言い難く、その後も改造が行われたことが甲板部記録簿に残っています。改装後の設備には、病院船ならではものとして遺体安置所と火葬施設が設けられました。

 さて、病院船はジュネーブ条約やハーグ条約により敵味方を問わず負傷者を救護することから、中立・安全を保障されていましたが、やはり激戦地を行く以上、危険が伴いました。実際に病院船となった『ぶぇのすあいれす丸』が米軍機の爆撃で撃沈されるなど、陸海軍合わせて40隻ほどの病院船が戦没しています。

『氷川丸』も銃撃や爆撃を受けたことがあり、スラバヤ港外、ルオット水道(クェゼリン環礁)、シンガポール海峡の3か所で機雷の被害にあっています。それでも無事に過ごせたのは、北太平洋の荒波に耐えるための厚い外板や、“軍艦”と形容されたほどの高い規律ゆえのものだったとされています。なお、同型船の『日枝丸』は特設運送船に転籍したあとトラック環礁に向かう途中で、『平安丸』はトラック環礁で、それぞれ戦没しました。

Large 02

拡大画像

病院船時代の『氷川丸』(樋口隆晴作図)。

 もっとも、日本軍は病院船で将兵や軍需物資を運ぶという、赤十字の規定に反する行為を再々行っていました。一番有名な例は、第五師団の将兵を病院船橘丸で輸送中に拿捕された橘丸事件ですが、『氷川丸』もシンガポールから重油とともにパイロットや航空機整備員を運んだり、さらには暗号書の輸送に使用されたりしています。

 そんな状況下でも『氷川丸』は、東はタラワから南はソロモン諸島のブインまで、本来の役割である傷病兵の輸送に活躍し、3万名にのぼる戦傷病者を運び続けて、舞鶴港のドッグで終戦を迎えたのでした。

【同じ船!?】戦場の「病院船」だった氷川丸 写真で見る

最新記事

コメント

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleのプライバシーポリシー利用規約が適用されます。

3件のコメント

  1. (誤)約2.24km/h → (正) 約33.724km/h(?)
    (誤)ドッグ → (正) ドック

    プロの物書きにはありえないレベルの稚拙な間違いが目立つ文章。

  2. 三笠・宗谷・氷川丸は日本三大記念艦と呼んで相応しいそれぞれの歴史と経歴を持つ。
    保存状態の差はあるけど。

  3. 姉妹船だった、平安丸はトラック島で、日枝丸は、ラバウル沖でそれぞれ米軍機と米潜水艦によって撃沈されてしまいました。この2隻も健在だったら、戦後どんな航跡をたどったのか、、、惜しいです、、、