「氷川丸」=“軍艦氷川”って? シアトル航路のセレブ船から戦場へ 波乱の生涯
戦後シアトル航路へ再就航 乗っていたのは?
終戦を迎えた『氷川丸』に、休息のときはありませんでした。第二復員省(旧海軍省)に傭船され、1945(昭和20)年9月から翌年まで復員輸送に使用されたのです。
とくに補給が断たれたマーシャル群島のミレから飢餓状態の2700名を復員させたのは病院船ならではの仕事でしょう。復員船として『氷川丸』は7航海で約2万名の海軍将兵を復員させました。さらに氷川丸は一般邦人の引き揚げにも活躍。その任務を解かれたのは1947(昭和22)年1月12日のことでした。
その後、『氷川丸』は外国航路が閉鎖されていることから北海道航路に投入され、また不定期便として南アジアなどにも航海しました。
本来のシアトル航路に『氷川丸』が復帰したのは、1953(昭和28)年のことでした。このとき『氷川丸』は、フルブライト委員会(日米教育委員会)からの要請をうけ船内の一部をアメリカンスタイルに変更し、旅客定員を一等34名、二等をツーリストクラス、三等をAとBの2つに区分しました。
こうして7月28日、貨客船としてシアトル定期航路に12年ぶりの復帰を果たします。ただ、今度はセレブたちではなく、多くの留学生を乗せることとなりました。『氷川丸』に乗船したフルブライト留学生には後にノーベル物理学賞をとる小柴昌俊、同じく化学賞の下村 侑、国連事務次長となる明石 康がいます。また1959(昭和34)年にはアメリカ公演のために宝塚歌劇団のメンバーが乗船しました。
しかし時代は、飛行機による旅客輸送と専用船による貨物輸送に移り変わっていました。1960(昭和35)年、日本郵船は客船事業から撤退(現在はグループ会社の郵船クルーズが「飛鳥II」を運行)。『氷川丸』も同年8月27日に最後の航海へ出航したのです。
その後、『氷川丸』は観光施設として横浜市の山下公園に自走できない状態で係留され、2003(平成15)年には横浜市有形文化財の指定をうけました。2007(平成19)年には日本郵船が買い取って、翌年には往時の姿を偲ぶ海事博物館、産業遺産としてリニューアル・オープンして現在に至っています。2016年には、重要文化財指定を受けました。
【了】
※一部修正しました(6月20日9時35分)。
Writer: 樋口隆晴(編集者、ミリタリー・歴史ライター)
1966年東京生まれ、戦車専門誌『月刊PANZER』編集部員を経てフリーに。主な著書に『戦闘戦史』(作品社)、『武器と甲冑』(渡辺信吾と共著。ワンパブリッシング)など。他多数のムック等の企画プランニングも。
(誤)約2.24km/h → (正) 約33.724km/h(?)
(誤)ドッグ → (正) ドック
プロの物書きにはありえないレベルの稚拙な間違いが目立つ文章。
三笠・宗谷・氷川丸は日本三大記念艦と呼んで相応しいそれぞれの歴史と経歴を持つ。
保存状態の差はあるけど。
姉妹船だった、平安丸はトラック島で、日枝丸は、ラバウル沖でそれぞれ米軍機と米潜水艦によって撃沈されてしまいました。この2隻も健在だったら、戦後どんな航跡をたどったのか、、、惜しいです、、、