乗り気じゃなかった? 日本艦隊ヨーロッパ派遣の残響 マルタ島の慰霊碑が物語る世界の評価
今から約100年前の第1次世界大戦で、旧日本海軍は遠く地中海にまで艦隊を派遣しました。なぜ行くことになったのか、その経緯と戦果、戦後の影響について軍事同盟だった日英同盟を背景に、旧日本海軍はどう対応したか紐解きます。
地中海に派遣された第二特務艦隊、その陣容
このように、太平洋では一定の軍事行動を行った日本でしたが、イギリスの派兵要請を断り続けるのは日英同盟の関係上.まずいということで、艦隊の派遣が決まります。それが地中海で船団護衛に就くための第二特務艦隊でした。
第二特務艦隊は「特務」の名前どおり、地中海に派遣するために編成された臨時の艦隊です。巡洋艦1隻に駆逐艦4隻からなる駆逐隊を2つ、計9隻で編成されていました。
旗艦として白羽の矢が立ったのは、防護巡洋艦「明石」、駆逐艦は第1次世界大戦が開戦した1914(大正3)年から就役が始まった当時の新鋭艦「樺」型で、建造された10隻のうち8隻が投入されました。
なお、のちに第二陣として装甲巡洋艦「出雲」と、「樺」型の後継として生まれた「桃」型駆逐艦4隻が、増援として派遣されています。
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第一陣の防護巡洋艦「明石」以下、駆逐艦8隻がイギリス軍の軍事拠点だったマルタ島に到着したのは、戦争が始まって3年目の1917(大正6)年4月でした。
地中海ではドイツの同盟国であるオーストリア=ハンガリー帝国の潜水艦が暗躍していました。対抗するため、イギリスを中心に連合国の艦隊が船団護衛を実施していたものの、フランスとイタリアはあまり協力的ではなく、第二特務艦隊に期待が寄せられていました。
第二特務艦隊が到着して間もなく、ドイツは連合国の軍艦以外に商船も攻撃する「無制限潜水艦戦」を宣言し、船団護衛の重要性が高まります。こうして、実質的に地中海の船団護衛はイギリスと日本が受け持つことになっていきます。
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