海自US-2の祖先 九七式飛行艇が初飛行-1936.7.14 国産大型機の先駆 戦前航空技術の極み
飛行艇だからこそ終戦後も飛び続けることに
九七式飛行艇は全長25.6m、翼幅40.0m、全高6.27m、全備重量は17.5tと、それまで旧日本海軍が運用していたどんな航空機よりも巨大なものでした。
最高速度は385km/h、航続距離は約5000kmと当時の航空機としては高性能であったことから、輸送機としても使用されたほか、一部の機体は民間の航空会社に引き渡され「川西四発飛行艇」の名で、当時、日本の統治下にあったサイパンやパラオなど南洋諸島との定期航空路線にも就航しています。
1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まると、その長大な航続距離、長時間滞空可能な飛行能力を活かして偵察や哨戒、輸送、連絡など多様な任務に従事します。しかし、陸上機と比べ遅く、大型機であるがゆえに鈍重だったことから撃墜されやすく、大戦中盤以降は、後方で使用されることが多くなりました。
また防弾装備が貧弱で、搭載する自衛用の機銃も少なかったことから、敵の爆撃機などと会敵した際もやられ易く、その点も本機のウイークポイントでした。
なお、生産自体は太平洋戦争前半の1942(昭和17)年に終了しており、1945(昭和20)年8月15日の終戦時に残存していたのは10機未満といわれています。しかし、その長大な航続距離と、飛行場のない島嶼部でも離着水可能な飛行艇という特性から停戦後も重用され、最後まで太平洋の空を飛び続けた日本軍機のひとつとなっています。
本機が成功したことで、川西航空機は飛行艇メーカーとして確固たる地位を築き、より高性能な二式飛行艇(二式大艇)を開発することに繋がりました。そしてその設計思想は、戦後誕生したPS-1対潜飛行艇に受け継がれ、現在のUS-2救難飛行艇にも継承されているといえるでしょう。
ちなみに九七式飛行艇の生産数は輸送機型を含め217機。この数は後継である二式飛行艇の167機よりも多いです。
【了】
※一部修正しました(7月14日9時05分)
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