吊り上げたのは軍縮の棚ボタ? クレーン船「蜻州丸」 旧陸軍と海軍が手を取り作ったワケ

「八八艦隊」プロジェクト頓挫ののちに

「要塞整理案」と「要塞再整理案」の目的は、明治初期以来、五月雨式に外国から購入した雑多な要塞砲を整理し、第1次世界大戦の戦訓から、より強力で射程の長い要塞砲を備えた砲台を建設することにありました。なお、その骨子には「艦砲の威力増大に対し備砲の威力を強化する、防御線を外海に推進する」と記されていました。

「要塞再整理案」は、翌年に予算2億6000万円で議会を通過、これにより、戦艦の主砲に匹敵する36cm砲と41cm榴弾砲の試作が始まります。ただ、このように新たな砲台の整備が進められることが決まったことで、起重機船についても新型を調達することが要望されたのだと推察されます。

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「蜻州丸」が部品を運搬した巡洋戦艦「赤城」の一番主砲搭の45口径40㎝連装砲塔。壱岐要塞黒崎砲台で写されたもの(画像:壱岐要塞司令部)

 ところが、その「要塞再整理案」が可決された1919(大正8)年、旧日本海軍では戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中心に多数の補助艦艇を建造するという、いわゆる「八八艦隊案」が成立します。この「八八艦隊」は完成した時点での維持費が年間6億円にのぼると見積もられました。ちなみにこの頃の日本の経常歳出額は15億円前後です。

 加えて、陸軍は平時、27万人から30万人の兵士を有していました。第1次世界大戦戦後の不況とシベリア出兵のさなか、新たな要塞建設や新型火砲(要塞建設とは別予算)の開発など、現実的には無茶な話でした。

 そうした状況下、1921(大正10)年に日本はアメリカやイギリス、フランス、イタリアらと軍艦の保有制限を課したワシントン海軍軍縮条約を締結。これにより海軍が策定した「八八艦隊案」は廃止されます。

 ただ、このとき同時に日本が提案した「太平洋防備条約」が締結されたことで、アメリカはハワイ以西、フィリピン以南に要塞化された艦隊根拠地を持つことが不可能になったため、日本は外交的には勝利を収めたといえるでしょう。

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