吊り上げたのは軍縮の棚ボタ? クレーン船「蜻州丸」 旧陸軍と海軍が手を取り作ったワケ
クレーン船として東奔西走
「蜻州丸」は喫水が浅いのも特徴でした。なんと水深1.12mの浅海面でも行動できるほどで、加えてメイン・クレーンに荷物を吊って前方に振り出すと船が前に傾くため、船首を海岸に擱座させることで、クレーンの台座としてより船体を安定させることが可能でした。こうしたさまざまな特徴を持った「蜻州丸」の完成によって、陸軍は浜さえあればおよそどのような場所にも砲台を建設できるようになったといっても過言ではないでしょう。
陸軍船として唯一無二の性能を持つ「蜻州丸」は、その存在意義を誇示するかのように、東京湾要塞、津軽要塞、豊予要塞、対馬要塞、釜山要塞、壱岐要塞と、日本各地のさまざまな砲台建設に携わりました。
こうして各地の新しい砲塔砲台の建設が終わったあとも「蜻州丸」の運用は続きます。1937(昭和12)年に日中戦争が勃発すると、「蜻州丸」は中国大陸へ出動し、上海を起点に河川の航路妨害のために沈められた船を、その喫水の浅さとクレーンの吊り上げ能力を活かして片付ける任務などに就きました。
1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まると、「蜻州丸」は、日本軍が占領した香港を経由してシンガポールまで進出し、サルベージ作業にあたっています。
こうして太平洋戦争中も重用された「蜻州丸」は、幸運にも戦火をくぐり抜け、日本の敗戦に伴いイギリスに接収されます。その後もクレーン船として引き続き使用されましたが、香港へ移動したのち、同地を襲った台風により沈没。1946(昭和21)年にその生涯を閉じました。
旧日本陸軍の要求で生まれた特異な船「蜻州丸」。派手な武装などない地味な支援船でしたが、他船にはない性能を活かして、戦前、戦中、戦後と20年にわたって重用され続けました。「黒子」「縁の下の力持ち」という言葉どおりの船、「蜻州丸」はまさにそう言えるでしょう。
【了】
Writer: 樋口隆晴(編集者、ミリタリー・歴史ライター)
1966年東京生まれ、戦車専門誌『月刊PANZER』編集部員を経てフリーに。主な著書に『戦闘戦史』(作品社)、『武器と甲冑』(渡辺信吾と共著。ワンパブリッシング)など。他多数のムック等の企画プランニングも。
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