吊り上げたのは軍縮の棚ボタ? クレーン船「蜻州丸」 旧陸軍と海軍が手を取り作ったワケ
仕事は戦艦の砲塔を陸に運ぶこと
ただ、これら条約締結により「八八艦隊」のために廃棄される旧式艦や、建造中止となった艦の砲が余ることになりました。この余剰砲をそのまま要塞に備えれば良いわけです。そこで、陸海軍の垣根を越えて、砲の転用を強力に推し進めていったのが、陸軍重砲開発のチーフともいえる技術本部重砲班長の松村乙吉砲兵大佐でした。こうしてワシントン軍縮条約の翌年から、陸海共同の巨大プロジェクトが始まります。
かくして、新たな起重機船として計画された「蜻州丸」は、この巨大プロジェクトの一環として、陸軍の委託で海軍の艦政本部が設計を担当することになりました。
ちなみに、「蜻州丸」は陸上に砲塔型の砲台を設置するという巨大な工事システムの一部をなすサブ・システムでした。砲塔型の砲台を据え付けるための機材としては120t門型クレーン、100tウインチを装備するほか、古来より重量物の運搬に使用されたシュラ(重量物運搬用のソリ)や神楽桟(ろくろ)も備えていました。
「蜻州丸」は1926(大正15)年に東京の石川島造船所で竣工します。排水量は2000トンあったものの、垂線間長(船首喫水線先端と舵軸中心までの長さ)は61m。船型はたとえるなら盥(たらい)のような形をしており、このため速度は遅いものの安定が良く、また3枚舵なので小回りも効きました。これは建設作業に従事する船としては必須の能力でしょう。さらに航続距離は7ノット(約13km/h)で1500海里(約2780km)ありました。
この船を特徴づけるのは、むろんクレーンの荷重で、メイン・クレーンは150tの吊り上げ能力がありました。戦艦「長門」型の40cm砲の砲身重量が1門約100tなので、充分な数値です。
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