カエル目の輸送機C-74「グローブ・マスター」ナゼその形に? ヒット作ならぬも残した功績
でも売れなかったC-74…なぜ? しかし功績も
ただ、名門ダグラス社製の開発であり、機体性能も高かったにもかかわらず、C-74「グローブ・マスター」は14機しか製造されませんでした。これはこの機の開発に予想以上の時間を要してしまっているあいだに、第二次世界大戦が終結してしまったため。当初50機の発注を得ていたにもかかわらず、政府の意向で航空機生産がキャンセルとなってしまったのです。
その一方で、1948年、米ソ対立によって生じたいわゆる「冷戦」発生を発端に、ソビエト連邦が、西ドイツの西ベルリンに向かう交通を全封鎖した事件、冷戦時代の最初の国際危機「ベルリン封鎖」で、C-74は活躍します。この物資補給飛行である「ベルリン空輸」に同機が使用されました。このとき、C-74は「100人以上の乗客を乗せて北大西洋を横断した最初の航空機」という記録を打ち立てています。
このC-74での「ベルリン空輸」を経て、ダグラス社はC-74のエンジン、当時ピストン・エンジンで最強の出力を持つと呼ばれたR-4360に換装し、胴体を拡大発展させて総2階建てとしたC-124「グローブ・マスターII」を生み出します。この機は500機近く量産され、アメリカ空軍で重要な役割をもつ主力輸送機として活躍することになりました。
ちなみにダグラス社はその後C-124「グローブ・マスターII」をさらに発展させ、エンジンをさらに出力の高いターボ・プロップ・エンジンに換装して、より巨大な戦略輸送機とする「C-132」の開発にも着手しましたが、ボーイング社の「C-135」ジェット輸送機が出現したこともあり、原寸大模型の製作のみで、実機の飛行にはいたりませんでした。ちなみに、「グローブ・マスターIII」の愛称は、ライバル社であるマクダネル・ダグラス社(現ボーイング社の一部)」で開発されたC-17に採用されています。
【了】
Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)
成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。
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