「黒い怪鳥」の先祖? 戦略偵察機の先駆け「一〇〇式司偵」イギリスでは最大の賛辞も
1937年に登場した九七式司令部偵察機は、当時では画期的だった偵察専用の機体として開発され、後継である一〇〇式司令部偵察機と共に、現代の戦略偵察機の先駆けとなった機体です。これらが生まれた経緯と上げた戦果を振り返ります。
現在の偵察機のルーツになった機体?
11月30日はオートフォーカスが発明されたことにちなみ、日本では「カメラの日」に定められています。そもそもカメラと軍用機は切っても切れない関係で、発明間もない飛行機が第1次世界大戦で戦場に登場したきっかけは、カメラを取り付けた偵察機としての運用が端緒でした。その流れは現在でも続いており、「戦術偵察機」や「戦略偵察機」として各国で運用されています。
しかし、前者の場合は戦闘機や攻撃機、爆撃機などに偵察ポッドを取り付けたものも多用されているのに対し、後者は高々度を長時間飛んだり、敵に見つかった場合は追尾を振り切って逃げたりすることが求められるため、比較的専用の機体が多いという違いもあります。
だからこそ、戦略偵察機の分野では「世界最速のスパイ機」といわれるSR-71「ブラックバード」や、「黒い怪鳥」と呼ばれるU-2などが開発されたといえるでしょう。
ただ、これらの原型といえる超速の戦略偵察機を世界に先駆けて造ったのは日本、それも旧日本陸軍でした。
日本陸軍は巨大な兵力を有するソ連軍との戦いに備え、少しでも戦闘を有利に進めるべく、太平洋戦争前から既に前線部隊や陣地などの敵情偵察とは別に、予備部隊の動向、生産施設や交通網までも偵察範囲に置いた戦略的な観点での偵察を重視していました。
そのために考えられたのが「司令部偵察機」と呼ばれる機種です。その先駆けといえるのが、1937(昭和12)年に正式採用された九七式司令部偵察機です。当時、偵察機というのは、既存の航空機を改造して作られるのが普通でしたが、同機は敵地深くに侵入し、機体が持つ高速性で敵機を振り切って情報を持ち帰るということを基本コンセプトとしていたため、専用設計とすることで長距離飛行や高速性能などを実現していました。この専用設計で高速性を有すという点が、前述したような現在の戦略偵察機の先駆けといえる部分です。
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