「黒い怪鳥」の先祖? 戦略偵察機の先駆け「一〇〇式司偵」イギリスでは最大の賛辞も
一〇〇式司偵で日本陸軍戦略偵察は完成系となるが…
とはいえ、当時は航空機が日進月歩のスピードで進化していた時期であり、すぐに九七式司令部偵察機は速度面での優位性を失ってしまいます。そこで日本陸軍が新たに計画し、誕生したのが一〇〇式司令部偵察機、通称「一〇〇式司偵」でした。初飛行は1939(昭和14)年11月で、エンジンを双発にして信頼性を上げるとともに、600km/h超という高速を実現しています。
さらに九七式司令部偵察機よりも高高度を飛べるようになっており、迎撃しにくい高高度を単機で高速進入し、情報収集して無事、味方の飛行場に降り立つという、現代に続く戦略偵察の方法を最初にやった航空機といえるでしょう。
同機は太平洋戦争開戦前夜に、遠く離れたマレー半島のイギリス軍やフィリピンのアメリカ軍などに対する隠密偵察を行って貴重な敵情を多数持ち帰ったことで、開戦序盤での日本軍の快進撃を影から手助けしました。
九七式司令部偵察機と一〇〇式司令部偵察機で戦略偵察という画期的な発想にたどり着いた旧日本陸軍ですが、戦略といっても範囲や速報性は最低限で、当時においてどこまで意味があったかは未知数です。
現在のように、専用のジェット機で敵対勢力の奥深くにある目標まで偵察したり、高高度無人偵察機からデータリンクにより詳細なデータがリアルタイムで送られてきたりする訳ではないため、他国は効率性を重視して作らなかったという考えもあります。なにかとこだわりがちな日本的なクセが色濃く出た機体ともいえるかもしれません。
ただ、連合軍と終戦まで戦った一〇〇式司偵に関しては、同機が飛来した後には、何らかの作戦行動があるということで「ビルマの通り魔」「空の百合」「写真屋のジョー」「地獄の天使」などの異名が付けられたのも事実です。
その日本機離れした高速性から、実機が唯一現存するイギリス空軍博物館には説明文として「第2次大戦で活躍した軍用機のうちで最も美しい機体のひとつ」という一文が付けられています。この言葉は、ある意味で当時敵だったイギリス軍から一〇〇式司偵に送られた最大の賛辞だともいえるでしょう。
【了】
Writer: 斎藤雅道(ライター/編集者)
ミリタリー、芸能、グルメ、自動車、歴史、映画、テレビ、健康ネタなどなど、女性向けコスメ以外は基本やるなんでも屋ライター。一応、得意分野はホビー、アニメ、ゲームなどのサブカルネタ。
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