中古車売場の端になぜフェリー桟橋? 阪神大震災&明石海峡大橋が命運わけた“神戸の海の玄関口”
全国の「フェリーターミナル」の先駆けとなった東神戸港 震災時には命綱に
「東神戸フェリーセンター」は、バラバラに発着していた各社フェリーを集約するため1970(昭和45)年に開設。切符の販売、給油、乗務員の休憩所まで各社の共同利用を可能としたターミナルの存在は、自前の拠点を持てなかった海運業者のフェリー参入を続々と呼ぶことに。以降、大阪南港・東京港など同様のターミナル開設が続きます。
いま「サンシャインワーフ神戸」に残るバース(フェリーの発着スペース)は2か所ですが、かつては4バースが稼働。当時はまだ本州・四国間に架橋がなかったこともあり、四国方面への便は特に多く、いまの3倍に当たる15往復体制だった「ジャンボフェリー」(「ニュージャンボフェリー」含む)や「徳島阪神フェリー・愛媛阪神フェリー」などが運航されていました。
なかには3隻が同時出港する時間帯もあり、フェリーセンターはいつも人でいっぱい。最寄り駅(阪神本線 青木駅)から800mほどの沿道は、荷物を抱えた人々が昼夜を問わず歩いていました。
明石海峡大橋の開通がとどめに
「阪神大震災」が発生した1995(平成7)年1月17日早朝、入港しようとした「徳島阪神フェリー」が発した無線連絡にいっさい応答がなく、船は急きょ大阪南港に向かうことになったといいます。
その頃、港は通信手段がすべて失われ、岸壁は巨大なヒビが引き裂かれたように入り、復旧まで8か月を要しました。しかし本格復旧前に、食料や救援物資がここから次々と陸揚げされ、風呂を提供する船も発着。近隣の魚崎地区の方の話によると、港から運ばれた物資のおかげで早めに暖かい食事を口にできたといいます。
しかし、港と青木駅との間にある阪神高速3号神戸線の高架が崩落し、徒歩や車・トラックの移動は困難でした。前述の「徳島阪神フェリー」も神戸発着便を大阪南港発着に振り替え、そのまま神戸には戻らず廃止に。再開した航路も、震災による移動需要そのものの落ち込みから、各社とも苦境に見舞われます。
四国への各社航路は、「明石海峡大橋」架橋による再編が既定路線だった頃もあり、1998(平成10)年の開通とともに、ほぼ撤退しました。残る九州方面への航路や「ジャンボフェリー」も六甲アイランド・三宮のフェリーターミナルに移転し、翌1999年に東神戸フェリーセンターは閉鎖となりました。
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