プロペラ旅客機の名門ダグラス「DCシリーズ」で全ッ然売れなかった機種とは 超革新的な設計だったのに
「DC-5」はなぜここまで売れなかったのか?
DC-5がほかのダグラス社製レシプロ旅客機と比較して、著しく製造機数が少なかったおもな要因とされているのは、ちょうど、第2次世界大戦下の混乱期とでデビューが重なってしまったからだったとされています。
当時のダグラス社では軍用機の製造を強化するべく、DC-5の生産ラインが大きく減らされてしまったのです。戦後においても、多く残った軍用のDC-3(C-47)を民間転用する方針が採用されたため、DC-5の生産が復活することはありませんでした。
DC-5を発注した航空会社はオランダのKLM航空のみで、残りは軍用で用いられました。なお、このKLMが購入したDC-5のうち1機は、東南アジアのオランダ領であったジャワ~オーストラリア線で使用されていましたが、1942年の旧日本軍の進攻によって占領された際に1機が旧日本陸軍に接収されました。この機体は、飛行可能な状態に整備され、日本へ飛行し、昭和17年に羽田飛行場で開催された鹵獲機展示会に展示されました。
ちなみに、当時のボーイング社の社長であったウィリアム・ボーイングが、DC-5の試作一号機を購入して、自家用機として使用していたとか。もしかすると、開発時期さえずれていれば、他のダグラス社の旅客機に引けをとらない名機となったかもしれません。
【了】
Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)
成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。
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