「鉄道を破壊する抗日ゲリラ」にどう対処? 旧日本軍が中国大陸で展開した“治安維持”の方法
日中戦争において、日本軍は中国の北部から中部地域までその勢力圏を広げました。その広大な占領地を結ぶ鉄道を遮断しようとする中国の抗日ゲリラに対し、日本軍は現地住民を巻き込んで「鉄路の戦い」を繰り広げました。
日中戦争の中国で相次いだ鉄道へのゲリラ攻撃
1937(昭和12)年の盧溝橋事件から始まった日中戦争で、日本軍は破竹の勢いで華北(中国北部)から華中(中国中部)まで戦域を広げました。その中で日本側が苦慮したのが、中国の占領地における治安維持でした。
当時、華北と華中の鉄道路線を経営していたのは、それぞれ日本の国策鉄道会社の「華北交通」「華中鉄道」でした。これらの会社は日中戦争を通じ、頻繁に発生していた抗日ゲリラの妨害工作に、有効な対抗策を打ち出すべく、「鉄路の戦い」を繰り広げました。本稿では、知られざるその顛末をひもときます。
当時、日本軍が確実に占領する地域は中国の主要な都市、そして鉄道、道路のみに限られていました。華中地域まで全土を掌握するには、兵力が足りなかったからです。一方、蒋介石の中国国民党正規軍の残兵によるゲリラ部隊や各種の武装勢力は、日本軍占領地の後背に多数存在しました。またこれらの武装勢力に対して中国共産党は彼らを味方に取り込もうとしていました。
華北・華中地域を手に入れた日本軍でしたが、実際は占領地の10%しか治安を確保できていなかったのです。これがいわゆる「点と線」しか維持できていなかったという状況です。
また、日本軍は軍事行動に関して、必要とする物資を現地からの収奪に頼る割合が多く、そもそも日本の中国への進出目的は、実質的には中国からの「経済的収奪」でした。このため、前線に軍隊を送り、中国大陸の資源を日本に「還送」する鉄道は、中国側ゲリラにとって重要な攻撃対象となったのです。
当時の抗日ゲリラの鉄道への攻撃頻度は、ざっと以下のとおりでした。まず華北交通管内では、ゲリラの妨害による鉄道事故が1938(昭和13)年4月に270件、同8月に400件。通信線の切断は毎月230件にのぼりました。これが1941(昭和15)年になると、鉄道爆破、運行妨害、通信妨害、駅舎襲撃、列車襲撃、従業員の被害合わせて1224件となります。
華中鉄道の管内では、1941(昭和15)年の列車妨害が15件だったものが翌年には41件。橋梁爆破が3件だったものが11件に跳ね上がりました。
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