戦時中の鉄道は“女性が大活躍”…戦後なぜ消えた? 彼女らを追いだした「民主化の象徴」とは
女性活躍社会となってきた現代の日本。じつは過去にも女性が鉄道業界で活躍する時代がありました。それは戦時中です。ではなぜ戦争が終わったら、また女性が活躍できなくなったのでしょうか。
昭和初期の鉄道の「女性活躍社会」の実態
典型的な男職場だった鉄道現業に「女性活躍」が叫ばれて20年以上が経過しました。たとえばJR東日本では、いまや新入社員の3分の1、全社員の18.6%が女性となっています。
しかし日本の鉄道史上、最も女性が活躍した時代は太平洋戦争中だったと言わねばならないでしょう。
日中戦争に始まる総動員体制で女性は「銃後の守り」と位置付けられます。開戦からしばらくは、女性の労働動員は「志願制」かつそこから選抜される形で、対象年齢も満16歳以上25歳未満に限られていました。
しかし戦況の悪化に伴い、徴兵された男性の穴埋めとして、あるいはより多くの男性を戦場に送り込むため、積極的に男性の仕事を置き換えていきます。
1943(昭和18)年5月には、女子で代替できる職種、鉄道においては本社事務員、駅出札・改札、車掌などへの男子の就業禁止と、これら職種を22歳から39歳の未婚女性からなる「勤労報国隊員」によって補充する方針が決定します。
1944(昭和19)年3月からは志願者を対象として、学校や町内会などを通じて組織的に動員が行われることになり、同年8月には「女子挺身勤労令」が公布。「未婚女性の就業」がついに「義務化」されました。1945(昭和20)8月には、女子挺身隊の数は47万人にも達していたといいます。
応召・入営で職場を離れた国有鉄道職員は1937(昭和7)年の1万5千人から、1944(昭和19)年には17万人まで増加。これを穴埋めする勤労報国隊、女子挺身隊は1944年に約5万人、終戦時には稼働職員の3割を超える11万人に上っていました。
「女性だらけ」になった現場 では終戦後はどうなった?
さて戦争が終わると、この歪な状況の矛盾が一気に噴出します。
動員の解除によって女性は「開放」されますが、ただちにその穴埋めがされるわけではありません。役目を終えた軍需工場はともかく、鉄道が「人手不足」で止まってしまったら、社会・経済活動に一層の混乱を引き起こします。かと言って女性が職場に残り続け、戦場から帰った兵士が徐々に職場に戻って来ると、中長期的には職員数が過剰になってしまいます。
終戦直後の状況を記録した史料は少ないですが、1985(昭和60)年に発行された『新編埼玉県史資料編』の「女子勤務者・女子挺身隊の戦争終結後の取扱」の項に、大宮駅助役の記録が収められています。
これによると、1945(昭和20)年末までに職場を離れた兵士の半分が復員すると予測しています。となると女性駅員に余剰が生じる見込みですが、本人の希望で退職して家庭に復帰する人はともかく、「至難な仕事に精進」してきた女性職員を、「積極的に整理(リストラ)はしない」方針とあります。
とはいえ背に腹は代えられないようで、復員が進むにつれ女性たちは解雇されていったようです。1946(昭和21)年の国鉄労働争議関係のニュースを見ると、国鉄労働組合は女性職員の解雇について、戦時中の過酷な作業を克服してきた実績がありながら、戦前の「女子適職範囲」に戻すというだけで女性を解雇するのは「基本的人権の蹂躙」であり「封建制への逆行」であると厳しく批判しています。
コメント