アンテナ取って付けたヤツらとは違う! 夜間戦闘機の決定版「P-61」が残したもの 優秀だけどデカすぎた!?
内蔵レーダー、爆撃機並みの重武装、しかし…
P-61「ブラックウィドウ」は、2250馬力のエンジンを2基搭載した双発機となり、機体上部に遠隔操作式12.7mm四連装機銃の砲塔、胴体腹部に20mm機関砲4門を備え、爆弾4発またはロケット弾6発が搭載可能でした。
日独の夜間戦闘機は高高度を高速で飛行する連合軍の爆撃機を迎撃するため、主力武装としてコックピット後方に斜め銃を装備し、敵機の下方から比較的防御の弱い腹部を狙うようになっていましたが、P-61は機体上部と腹部に武装があり、敵機の上下から攻撃が可能でした。
そして肝心のレーダーは、日本とドイツが機首にむき出しの棘のような「八木アンテナ」を装備したのに対し、P-61はレドーム、つまり内蔵式のパラボラアンテナを装備していました。
これらの装備によってP-61は、日独の夜間戦闘機の多くは“後付け感”のある外見とは異なる、スマートかつ重武装の夜間戦闘機として完成しました、そのレーダー装備からくる航法能力の高さは、現在の全天候型戦闘機の先鞭をつけたともいえるものでした。
ただし、P-61はその能力と引き換えに、当時の戦闘機としては並外れた大きさと重量になっていました。最大重量は、当時のアメリカ陸軍の双発戦闘機P-38の約8tより5t以上も重い約13.5tで、乗員はパイロットと射撃手、それにレーダー操作員の3名でした。
日本軍はP-61を爆撃機だと思った
制式採用されたP-61が最初に前線に出たのはノルマンディー上陸作戦直前の1944(昭和19)年5月でした。太平洋戦域では6月にガダルカナル島へ最初の機体が到着しています。
日米戦でP-61の活動はほとんど語られることはないものの、サイパン島に配備された機体がフィリピンで日本軍機と戦っています。P-61と交戦した日本軍パイロットは、この巨大な夜間戦闘機を双発爆撃機と認識していたようです。
終戦を迎えてジェット機の開発が本格化し、使う場面が限られる夜間戦闘機は用済みになります。P-61は射出座席や新型ミサイルの空中発射など各種の実験に使用され、朝鮮戦争が終わった翌年の1954(昭和29)年にひっそりと退役しました。
しかし、英米の技術交流から生まれたこの機体は、その後の全天候型のジェット軍用機に影響を与えたものとして、航空技術史において忘れがたい存在といえます。
【了】
Writer: 時実雅信(軍事ライター、編集者、翻訳家)
軍事雑誌や書籍の編集。日本海軍、欧米海軍の艦艇や軍用機、戦史の記事を執筆するとともに、ニュートン・ミリタリーシリーズで、アメリカ空軍戦闘機。F-22ラプター、F-35ライトニングⅡの翻訳本がある。
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