二子玉川「発展の3フェーズ」 私鉄の雄・東急が目指すもの

私鉄の経営は鉄道のみならず、沿線開発とセットで行うビジネスモデルが古くから行われてきました。そうした歴史を持つ私鉄のひとつ、東急電鉄の沿線ではいま、二子玉川駅周辺が大きく発展しています。かつては景勝地だったというその場所に、東急はどのような青写真を描いているのでしょうか。「3つのフェーズ」があるというその発展について、同社の担当者にお話をうかがいました。

「3つのフェーズ」がある二子玉川の発展

 私鉄と沿線の開発は、切っても切り離せない関係です。沿線地域の開発により人口を増加させ、住民の需要を満たすことで鉄道会社は潤う。阪急電鉄の小林一三が作り上げたといわれるそのモデルを、私鉄各社は忠実になぞっています。

 小林一三と縁のある東急(東京急行電鉄)も、同様の戦略的開発を行ってきた私鉄のひとつ。近年では特に二子玉川(東京都世田谷区)の開発を盛んに行っています。この東急電鉄で沿線の開発を担当している東浦亮典さん(都市創造本部 開発事業部 事業計画部統括部長)にお話をうかがいました。

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東急が開発し、2011年の街開き後も発展が続いている「二子玉川ライズ」(2015年4月、ジャッカル金城撮影)。

■いま「二子玉川ライズ」など、二子玉川の開発が盛んですね。

 かつて二子玉川は、「玉電」と呼ばれた玉川電気鉄道玉川線の終点でした。二子玉川付近の砂利を採取して都心に輸送することを目的とした電車です。そのため二子玉川と渋谷を結ぶ玉電は「ジャリ電」とも呼ばれていました。1934(昭和9)年に二子橋より下流での砂利採取が全面禁止されてからは、旅客輸送に軸足を移します。

 その頃の二子玉川周辺は景勝地でした。遠くには富士山を望むことができたため、政財界の重鎮の別荘が建ち並んでいました。当時まだ橋はなく、鮎釣りの料亭、梁(やな)があったり、二子の渡しがあったりと、観光地として栄えていたのです。

■二子玉川はどのように発展してきたのでしょうか?

 二子玉川の発展には「3つのフェーズ」があります。第1は、さきほどお話しした観光景勝地として。大正から昭和初期は、風光明媚な観光地として気軽に訪れることができる場所でした。その流れで遊園地(二子玉川園、1985(昭和60)年閉園)も誕生します。

 第2は百貨店の高島屋さんができたこと。1969(昭和44)年のことで、日本初の郊外型百貨店でした。昭和40年代の田園都市線沿線は、郊外のショッピングセンターとそれに付随するライフスタイルに変化していったのです。

 この「タマタカ」と呼ばれた玉川高島屋さんは、二子玉川のブランディングに大きな力を与えてくれたと思っています。歴史的に百貨店は商業界の雄でした。そのなかでもトップクラスに位置する高島屋さんのネームバリューは、すごいものがありました。

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