「お、いいきっぷが出たな」 昭和の青春18きっぷ&周遊券“使い倒し旅”のリアル 私はこうして“ビンボー乗り鉄”にハマった

国鉄時代に登場した「周遊券」と「青春18きっぷ」は、若者たちの旅のスタイルを一変させました。1980年代に青春時代を過ごした“昭和ジジイ”の筆者が、かつての旅を振り返ります。

北海道&九州は「ワイド周遊券」がテッパン!

 やがて高校の長期休みになると、「北海道ワイド周遊券」や「九州ワイド周遊券」で旅に出ました。北海道、九州とも東京からだとかなり遠方ですが、この2つの地域を選んだのは、自由周遊区間内で完結する夜行列車があったからです。夜行列車で車中泊すればホテルや旅館の費用が要らないわけです。

 当時、北海道内は札幌を中心に、4方面に夜行列車が出ていました。稚内方面は急行「利尻」、網走方面は急行「大雪」5号・6号、釧路方面は急行「まりも」3号・4号、函館方面は普通列車の41レ・48レです。どの列車も21時台前後に発車して、翌朝6時台前後に到着します。急行はすべて三段式B寝台を連結し、“走るホテル”というより“走る簡易宿泊施設”でした。自由席は「利尻」が3両、「大雪」「まりも」は2両でした。

 周遊券さえあれば、夜に札幌周辺から列車に乗り、翌日は道北や道東、道南のローカル線を巡る旅を続けられました。急行の自由席は14系客車で、体を起こすだけで元の位置に戻ってしまう簡易リクライニングシートでしたが、乗り心地はまずまず。空いていれば向かい合わせにして足を伸ばせました。

 釧路行き急行「まりも」から見た日の出は、素晴しい景色でした。根室本線の厚内を過ぎて、太平洋岸に出た頃です。水平線の向こう、薄明かりの空に強い光が現れ、「日の出か」と思うとそれは金星でした。その後、まるで金星を追いかけるように大きな太陽が昇りました。今でも鮮明に覚えています。

 稚内行き急行「利尻」で思い出すのは、美深駅で見た光景です。真夜中の2時37分に美深駅に着き、7時5分発の美幸線の始発列車を待ちました。駅舎の外は濃霧に包まれており、扉を開けても足もとが見えないほど。幻想的というか、世界から隔離されたような寂しさ。駅の灯りも消えていて、4時間半もの間待合室の飲料自販機の灯りの下で星新一の全集を読んでいました。明るくなってから外に出ると、霧の向こうに駅前広場が現れました。

【フリー区間は小ぢんまり】「東京ミニ周遊券」当時の案内を見る(写真)

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コメント

3件のコメント

  1. 発売前年に国鉄(当時)に就職しました。若かったこともあり全線乗車証は手に入りませんでした。それどころか、乗車証の利用可能区間も狭められてしまい「何のために国鉄に入ったんだ。」と心密かに激怒していました(当時、既にそんな状況ではなかったんですけど…。)。代わりに割引証(乗車券と料金が半額。ただし、寝台料金は割引不可。)はたんまり使えたので、青春18きっぷや当時のワイド周遊券(主に北海道)は何度も使いました。割引証は、本人用12枚と家族用20枚(家族用は扶養家族のみ可。)のため、一人で32枚全て使い切りました。仕事の関係上、世間一般が長期休暇の際(年末年始、GW、旧盆など)はせっせと出勤し、代休をオフシーズンに纏めて、当時の国鉄線を乗り倒しました(笑)。九州南部&西部と北海道の一部は手持ちが足りず乗れずじまいになりました。当時、「いい旅チャレンジ2万キロ」というキャンペーンをやっていたのですが、勿論、国鉄職員は対象外でした。そのせい?もあり、6年間勤めた国鉄を分割民営化の際に退職して、乗り鉄から足を洗いました。

    余談ですが、還暦を過ぎた現在、すっかり出不精になってしまいました…。

  2. 70年代に学生だった私には、均一周遊券とユースホステルが旅の定番でしたが、ワイド周遊券やミニ周遊券の旅も経験した世代として、懐かしく読ませていただきました。

  3. 分割ちゅうスキームがある限り、じぇん国で使えるような割り引き切符は無理やな。

    金の取り分でもめるさけ。