「お、いいきっぷが出たな」 昭和の青春18きっぷ&周遊券“使い倒し旅”のリアル 私はこうして“ビンボー乗り鉄”にハマった
国鉄時代に登場した「周遊券」と「青春18きっぷ」は、若者たちの旅のスタイルを一変させました。1980年代に青春時代を過ごした“昭和ジジイ”の筆者が、かつての旅を振り返ります。
「青春18きっぷ」デビューは友人とのシェア
「青春18きっぷ」での最初の旅は、1983年9月3日です。高校の同級生に誘われて、日帰りで日光線と烏山線に乗りました。このときの「青春18きっぷ」の利用期間は9月10日まで。当時は冊子タイプの5枚つづりだったので、同級生が余った2枚を筆者と使おうと思ったのでしょう。
当時は東京?宇都宮間の片道普通運賃が1500円、往復で3000円。「青春18きっぷ」は1万円なので、1日あたり2000円はおトクでした。日光線と烏山線は「日光・那須ミニ周遊券」のエリアですが、東京発の設定はなかったのかもしれません。「青春18きっぷ」では特急や急行に乗れませんが、周遊券対象外の線区も乗り降り自由なのが魅力でした。
1984年春の「青春18きっぷ」で、この同級生と大阪方面へ遠征しました。今度は2人とも「青春18きっぷ」を1冊ずつ買って、4泊5日の大遠征でした。「京阪神ミニ周遊券」もありましたが、大人1万3500円で、「青春18きっぷ」より少し高かったのです。周遊券のエリア内で特急や急行に乗ることもないですし、周遊エリア外の路線にも乗りたかったので、「青春18きっぷ」のほうが良かったのです。
夜行快速は「青春18きっぷ」の“最強パートナー”
この旅で初めて、「青春18きっぷ」の「1回分は丸1日(0~24時)有効」というルールを踏まえた長旅を実践しました。東京発大垣行きの普通列車、通称「大垣夜行」だと、東京駅23時25分発で、0時を過ぎて最初に停車するのが平塚駅(0時5分発)でした。つまり、東京から平塚まで870円のきっぷを買っておいて、平塚駅から「青春18きっぷ」を使えば、その後24時間にわたって使えるわけです。
大垣着は6時57分。乗り継ぎ列車は西明石行きで、7時15分発でした。当時は乗り継ぎを急ぐ「大垣ダッシュ」は見られず、のんびりしていたと思います。
この旅では鍛冶屋線、高砂線、三木線、倉吉線など20線区以上も乗り潰しました。でもとくに印象が強かったのは、高校野球春季大会(春の甲子園)の観戦でした。当初は予定になかったものの、前日の夜のニュースで東京代表の岩倉高校が決勝に進出すると知り、急遽駆けつけたのです。鉄道マンを養成する学校ですから、鉄道ファンとしては応援しなければなりません。
対戦相手はPL学園で、ピッチャーが桑田真澄、4番打者が清原和博でした。のちの大スターがいたチームが相手でしたが、なんと岩倉高校が優勝しました。PL学園の応援団が名物の人文字で「岩倉おめでとう」と掲げ、それを見てPL学園の矜持を感じ、応援に来て良かったと思いました。こうした臨機応変の予定変更も、「青春18きっぷ」や周遊券ならではのことです。
夜行普通列車は長距離普通列車の名残で、主に登山者や日帰りスキーヤーが利用していたと思います。「青春18きっぷ」と夜行普通列車の相性はとても良く、大垣夜行は後に「ムーンライトながら」として乗り鉄に愛されます。ほかに新宿発新潟行きの「ムーンライトえちご」、新宿発白馬行きの「ムーンライト信州」もよく乗りました。いずれも現在は運行を終了しており、もう乗ることはできません。
70年代に学生だった私には、均一周遊券とユースホステルが旅の定番でしたが、ワイド周遊券やミニ周遊券の旅も経験した世代として、懐かしく読ませていただきました。