上野東京ライン構想もすでにあった!? 戦前の「鉄道改良計画」は実現したのか? 東京圏の戦後をズバリ予測!?
戦前に「大東京の省線電車の沿革と將來の改良計畫」と題された論文が発表されました。鉄道黄金時代の当時に描かれた鉄道の未来像とは、どのようなものだったのでしょうか。
「上野東京ライン構想」もあった
もうひとつの難問が、京浜間の輸送改善です。日本初の鉄道が開通した東京~横浜間は利用者が最も多い区間であり、東海道線、横須賀線、京浜東北線、京浜電気鉄道(現・京急電鉄)、東京横浜電鉄(現・東急東横線)が並行してなお、輸送力不足に悩んでいました。
1937(昭和12)年当時、ラッシュ時間帯の乗車率が200%を超えていた京浜東北線は8両編成、最短3分40秒間隔の運転でしたが、田町で山手線と合流するため、これ以上の増発は困難でした。
山手線と京浜東北線が並行する田町~田端間は現在、それぞれの線路を走る複々線区間ですが、実は1949(昭和24)年から1956(昭和31)年にかけて「分離工事」が行われるまで両路線は複線を共有していたのです。
複々線化用地は確保済だったため、鉄道省は1936(昭和11)年から品川~東京間の増線工事に着手しますが、当時の目的は「京浜東北線と山手線」ではなく、「急行線と緩行線」の分離でした。緩行線は従来の京浜東北線と山手線、急行線は東京発着の京浜線快速と、1930(昭和5)年に電化し中距離電車の運行を開始していた横須賀線が乗り入れる計画でした。
論文には1940(昭和15)年頃の完成を目指して鋭意工事を進めているとありますが、戦争の影響で工事は停滞。浜松町~田町間の立体交差構造など一部が形になったところで、1942(昭和17)年に中断されました。この高架線はそのまま品川車両基地に残されていましたが、高輪地区再開発の一環で2015(平成27)年に撤去されました。
さらなる展望として、桜木町から根岸、磯子を経由して北鎌倉に至る路線、後の根岸線が開業する暁には、京浜東北線を根岸線経由で横須賀方面へ運転したいとも記されています。根岸線は2008(平成20)年までごく一部の列車が横須賀線に乗り入れていましたが、そのルーツとも言える構想かもしれません。
またこの他、東京~上野間の線路増設による常磐線電車の東京乗り入れ、常磐線・東北線・高崎線の東京以南への直通運転、つまり現在の「上野東京ライン」構想にも言及しているのは興味深いところです。
1937(昭和12)年の「改良計画」は、鉄道の大規模改良工事は構想から着工まで長い時間がかかること、またその過程で姿を変えていくことを伝えています。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
「1933(昭和8)年に東京~中野間を複々線化」とあるが、当時の複々線区間は御茶ノ水~中野間であり、東京~御茶ノ水間は現在でも複々線ではない。執筆者の確認不足。
政府側に寝返った大宮のような犬が優先的に国策の恩恵を受けられたとかの明治初期まで遡った歴史的背景もあると面白いんじゃないかな