都営新宿線から来る列車はなぜ「橋本行き」ばかり? 京王“行き先縛り”の謎 半世紀前の計画の名残!?
都営新宿線から京王線へ直通する列車のほとんどは、京王八王子や高尾ではなく、京王相模原線の橋本へ向かいます。なぜでしょうか。
新線新宿から京王八王子・高尾山口へ向かう列車は少ない
京王電鉄の運行形態は、井の頭線を除くと、「京王線」「高尾線」の本線系統と「相模原線」に大きく分けられます。本線系統の上り列車はほとんどが京王線新宿行きです。相模原線の上り列車は日中、毎時3本が都営新宿線直通の本八幡行き区間急行、3本が新宿行き各駅停車のパターンで、朝夕のラッシュ時間帯はこれに新宿行き特急が加わります。

下り列車を見ると、京王線新宿駅からは京王八王子・高尾山口方面が基本で、相模原線直通列車は1時間あたり3~4本と、夕夜間には「京王ライナー」が設定されています。一方、新線新宿駅の下り列車は笹塚行きと深夜の桜上水行きを除けば、本線系統の列車は初電の京王八王子行きと次の高尾山口行きのみ。それら以外ほぼ全てが相模原線直通列車です。
つまり、京王線新宿駅を発着する列車は本線系統、相模原線の両方に設定されているのに対し、新線新宿駅を発着する列車はほぼ相模原線に限定されていることが分かります。これはなぜでしょうか。
京王線が新宿~東八王子(現・京王八王子)間の直通運転を開始したのは、1928(昭和3)年です。高尾線、相模原線のルーツはこれに前後して開業しました。
相模原線の母体となったのが、1916(大正5)年に調布~多摩川原(現・京王多摩川)間で開業した「多摩川支線」です。元々は多摩川の砂利を採取する路線でしたが、1927(昭和2)年に直営の娯楽施設「京王閣」が開業し、多くの人でにぎわいました。
高尾線の原型は、大正天皇の墓地である多摩御陵の参拝を目的として1931(昭和6)年に開業した「御陵線」北野~御陵前間です。戦時中に不要不急路線として休止となりますが、1967(昭和42)年に北野~山田間を転用・延伸して高尾線が開業します。
京王にとって大きな転機となったのは、多摩ニュータウンの開発でした。高度成長期の人口急増と住宅不足に直面した東京都は、1965(昭和40)年に南多摩地域の開発事業を都市計画決定し、翌年から事業を開始しました。
実際と大きく違っていませんか?
「相模原線の上り列車は日中、毎時3本が都営新宿線直通の本八幡行き区間急行、3本が新宿行き各駅停車のパターンで、朝夕のラッシュ時間帯はこれに新宿行き特急が加わります。」
とありますが、
実際には、相模原線の日中は、
・本八幡行き 区間急行
・本八幡行き 快速
・京王線新宿行き 特急
これらが各3本ずつです(京王多摩センター基準)。