赤レンガ駅舎は「価値失われた」 廃墟同然に破壊された東京駅「取り壊し危機」からなぜ復原に至ったのか?
東京駅を象徴する赤レンガ造りの丸の内駅舎は、1945(昭和20)年5月25日夜の「山手大空襲」で1階まで炎に包まれ、骨格だけを残して廃墟同然となりました。その後、丸の内駅舎は取り壊しの危機を迎えますが、現在は3階まで復原され元の壮麗な姿に。どのような経緯があったのでしょうか。
廃墟同然の赤レンガ駅舎、どうする?
1945(昭和20)年5月25日夜、東京都心に襲来した400機以上のB29爆撃機が行った空襲は、山手エリアの被害が特に大きかったことから「山手大空襲」と呼ばれます。これにより都心の重要目標は全て焼失したため、東京を標的とした最後の大規模空襲となりました。

死者3200人以上、焼失家屋16万戸以上の甚大な被害が出ましたが、鉄道関係でも山手線神田~品川間、高田馬場~恵比寿間の線路が損傷し、品川・新橋・新宿など主要駅の設備が焼失しました。その中でも特に被害が大きかったのが、東京駅丸の内駅舎(赤レンガ駅舎)です。
丸の内駅舎は2012(平成24)年に創建当時の3階建て・ドーム屋根の姿に復原されましたが、復原前の2階建て・三角屋根の駅舎は空襲被害の復旧にあたって作り変えられたものでした。これだけ見ると焼け落ちた屋根を作り替えただけかと思うかもしれませんが、東京駅の被害ははるかに深刻でした。
話を空襲当夜に戻しましょう。25日22時45分頃、B29から投下された焼夷弾はまず東京駅降車口(現在の丸の内北口)に命中し、屋根を突き破って火災が発生。全駅員で消火活動にあたりますが、中央口、乗車口(現在の丸の内南口)、東京鉄道ホテル、ホームへと燃え移りました。
3階は26日0時半頃に全焼し、2階、1階へと延焼。2時頃になると駅舎は完全に炎に包まれました。4時頃にようやく火勢が衰え、7時に鎮火しました。駅舎は耐火性の強いレンガ造りの骨格だけを残し、焼き尽くされてしまったのです。屋根はすべて焼け落ちて乗車口(現在の丸の内南口)・降車口のドームは焼けた鉄骨が飴のように垂れ下がり、見上げれば青空が望めるという廃墟同然の有様でした。
復旧工事は終戦直後の1945年9月に始まりました。空襲対策設備や、焼けたレンガ・鉄骨の撤去、仮設トイレの設置、雨ざらしだったプラットフォームへ屋根の仮設から着手しますが、問題はその先、駅舎をどうするかです。
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