「国鉄」「蒲蒲線」「東京メトロ」も作ったのはアメリカ? 日本の鉄道を形作った“戦後7年間”の痕跡
鉄道は戦中から戦後にかけて重要な交通機関でしたが、これは日本に進駐した連合国軍にとっても同じでした。進駐軍は荒廃した日本の鉄道を7年間でどのように変えたのでしょうか。その対応をたどります。
GHQは日本の鉄道をどう変えたか
1945(昭和20)年8月15日、3年9か月にわたる太平洋戦争は日本の敗北で終わりますが、そんな中でも変わらず動き続けていたのが鉄道です。自動車の普及が遅れた日本では、陸上交通のほとんどを鉄道が担っていたため、鉄道なくして国家は成立しなかったのです。

それは日本に進駐した連合国軍にとっても同様です。鉄道関係を担ったのが、8月末に到着した輸送司令官、ベッスン代将でした。彼は日本の鉄道が壊滅している可能性を考慮して、機関士・駅長を担える現場実務者を用意していましたが、9月4日の東京地区視察で鉄道システムが機能していることを確認します。
連合国軍総司令部(GHQ)のもとに鉄道輸送司令部(MRS)、地区司令部(DTO)、末端の現場機関として鉄道司令部(RTO = Railway Transportation Office)を設置。鉄道オペレーションは日本人に任せ、RTOが進駐軍の輸送計画を指令する体制を構築しました。
東京地区では早くも9月5日、京浜線(現・京浜東北線)東京~桜木町間の桜木町寄り1両を毎日2往復、進駐軍専用とするよう命令。専用車両は当初、側面に「RESERVED FOR ALLIED FORCES(進駐軍専用車)」と表示しましたが、後に状態の良い車両を進駐軍専用として窓下に白いラインを引いて区別しました。
以降、進駐軍の鉄道利用はますます増加したため、10月に山手線、11月に横須賀線、12月に中央・総武線にも進駐軍専用車両が設定されました。設定列車は日によって異なり、例えば横須賀線は最少で3.5往復でしたが、最も多いときは全列車に設定されたといいます。
しかし車両の荒廃は深刻だったため、MRSは1946(昭和21)年11月に「専用車の窓やドアが壊れたまま運転している」「座席、ドア、窓の状態が非常に悪い」「車両に暖房がない」など車両の欠陥を改善するよう国鉄に申し入れています。
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