「エイみたいな飛行機作ったら最強じゃね…?」→どう実現? 「全翼機」実用化までの経緯…悲願達成まで半世紀超!?
アメリカの戦略爆撃機B-2やB-21を生産しているノースロップ・グラマン。その創始者のひとりであり、航空機設計者でもあったジャック・ノースロップは長年、「全翼機」にこだわり続けました。
いいところだらけに見える「全翼機」なぜ普及せず?
この実証機はN-9Mと名付けられ1942年12月27日に初飛行しました。275馬力エンジン双発で最大速度415km/hと、全翼機らしい高性能ぶりでしたが、飛行の不安定性も露呈しました。その問題を解決するために時間を要してしまい、大型爆撃機の開発にはコンソリデーテッド社に先を越されてしまいます。
コンソリデーテッドの機体は1946年に初飛行しB-36ピースメーカーとして採用されましたが、ノースロップの全翼試作爆撃機XB-35フライングウイングが初飛行したのは1947年10月21日でした。第二次大戦終結に伴う軍事予算の削減もあり、世界初の全翼爆撃機は不採用となりましたが、空軍はその先進的なデザインは研究の余地があるとして前量産機YB-35による飛行試験を続けました。
そのうちの2機はピストンエンジンをジェットエンジンに換装し、YB-49として飛行試験が続きましたが爆撃機として採用されることはありませんでした。ノースロップは晩年、この決定には政治的な理由があったと述べています。
飛行試験の結果、全翼機特有の形状によりレーダー波の反射が少ないという性質は当時から認められていましたが、同時に不安定な飛行特性により操縦が難しいことに加えて爆撃精度が低いという問題が明らかとなっています。
しかし、1960年代以降、電子技術の進歩が航空機の進歩に大きく寄与することになります。不安定な飛行特性を機上のコンピューターで補う技術が確立されるのです。これは、フライ・バイ・ワイヤと呼ばれる飛行制御方式で、直訳するとFly By Wire = 「電線で飛行する」となりますが、パイロットが操作する操縦桿やペダルと操舵面の間を機械的に結んでいたものを電気信号に置き換え、コンピューターを用いることで人工的に飛行安定性を実現します。この技術により操縦が難しい不安定な機体でも毎秒数十回という頻度で補正を繰り返すことで安定した飛行が可能となりました。
そして、このフライ・バイ・ワイヤの進歩により全翼機が再び脚光を浴びることになるのです。全翼機を得意としていたノースロップ社はレーダーに探知されにくいステルス戦略爆撃機としてB-2を開発し1989年に初飛行させました。
こうして振り返るとノースロップ・グラマンの全翼爆撃機の歴史がおよそ85年前に初飛行したN-1Mから始まっていることがわかります。
この歴史はB-21に引き継がれていくことになりますが、ジャック・ノースロップの先見の明にはあらためて敬意を表したいと筆者は考えています。
Writer: 細谷泰正(航空評論家/元AOPA JAPAN理事)
航空評論家、各国の航空行政、航空機研究が専門。日本オーナーパイロット協会(AOPA-JAPAN)元理事
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