ドイツ潜水艦に「神棚」があった!? 日独をつないだ「過酷な作戦」 100年にわたる“水面下の交流”とは
第二次大戦末期、降伏したドイツ潜水艦から日本の「神棚」が見つかりました。「子供のおもちゃにちょうど良い」と言うイギリス軍の軍医を前に、ドイツ海軍の乗組員は、ある決断を下します。
ドイツ潜水艦に「日本の神棚」?
1945(昭和20)年5月9日、ノルウェーのベルゲンで降伏したドイツ潜水艦U-875に乗り込んだイギリス軍の軍医が、艦内の士官室で不思議な物を見つけます。それは、木片で組み立てられたミニチュアの家のように見えました。
軍医は「子供のおもちゃにちょうど良い」と言いましたが、これを聞いたドイツの乗組員は慌てます。このミニチュアの家は飾りなどではなく、日本の神棚だったのです。
航海の安全を祈願する「お守り」の習慣は世界各国にあり、日本では艦船に「艦内神社」が設けられました。しかし、なぜドイツの潜水艦に日本の神棚があったのでしょうか。
当時、日本とドイツは同盟関係にあったものの、地理的に離れているため、戦争が始まると連絡は困難でした。そこで採用されたのが、潜水艦による往復連絡「遣独潜水艦作戦」です。
この作戦では重要物資や兵器、情報のほか、大使館付武官や民間技術者など日独両国の人材輸送も行われました。当然スエズ運河は使えないため、通るのはアフリカの喜望峰を回り、地球を半周するルート。約2か月におよぶ長い航海であるうえ、連合軍の制海権海域も潜り抜けなければならない過酷な作戦でした。
結局、作戦では日本から5回潜水艦が出発しましたが、往復に成功したのは伊号第八潜水艦による、第二次遣独作戦だけでした。
日本はこのような長駆作戦を展開できる優れた潜水艦戦力を持っていましたが、この原点は第一次大戦で入手したドイツの潜水艦(Uボート)にありました。この大戦で、日本は協商国側として参戦。1918(大正7)年11月に休戦条約を締結し、協商国側が接収したUボート7隻を戦利艦として譲り受けています。
ドイツの最先端潜水艦を入手し、日本に回航するということは一大事業でした。その時の資料が、海上自衛隊潜水艦教育訓練隊の史料室に保管されています。そのなかに「戦利獨逸潜水艦廻航記念 大正八年大阪八月下旬」というスタンプが押された絵葉書7枚が残されており、「邪は正に勝たず 兇暴を逞ふせる独逸潜水艦の末路」と書かれています。当時の日本がドイツをどのように見ていたのかが伺える史料です。
当時、日本はアメリカのホランド型潜水艦を参考に、国産潜水艦建造を始めたばかり。最先端のドイツ潜水艦を徹底的に研究・解析できたことは、後の潜水艦戦力構築のブレイクスルーのきっかけにもなりました。
特に、艦隊決戦に使える伊号第五十一潜水艦(海大I型)から始まる、大型外洋型潜水艦の設計思想には、大きな影響を与えました。戦争末期には、航空機3機を搭載する第二次大戦最大の潜水艦「伊四百型」が完成。アメリカを驚愕させ、潜水艦を戦略兵器に一変させる契機となりました。





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